カテゴリー「偉大な宗教家」の24件の記事

空海の秘密荘厳心・・全ては愛を完成するために

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弘法大師・空海は「十住心論」で心の発達段階を十に分けて論じている。

 すなわち「第一住心 異生羝羊心 ( いしょうていようしん )」という幼稚な心の段階から「第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)」という究極の悟りの心までが体系的に説かれている。

 面白いのは、「十住心論」というタイトルである。

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 すなわち心の発達段階に従って、その住む世界が違うということである。

 たとえていうならば、十階建てマンションがあって、その住む階によって、見える光景が違うようなものである。

 換言するならば、今私達の見ている世界は、自分の心の住む場所、境遇に従って見えている世界であって、心のチューニングを変えてより高い境遇に住むことができることができれば、たちまち自分の周囲の環境が変わることになる。

 このチューニングの方法を様々な宗教は考案してきたわけだが、今自分の住んでいる境遇を分析することにより、自分の心の発達段階に気づくことができるはずである。

 

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 空海の説いた「第十住心」、秘密の荘厳心の境涯に出るのは極めて簡単である。

 既にあるところの仏心、慈悲喜捨の心を出しさえすればよいのだ。

 自分の中になければ難しいが、私達の中には既に秘密で目には見えないものの、仏と同じく美しい荘厳の心が宿っているのだ。

 ただそれに気づかず、磨きだしてこなかっただけなのだ。

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 ジョン・イッツォ氏の『人生の5つの秘密』では、生き甲斐のある幸福な人生を送るには、愛情をそそぐ人間になる、すなわち愛になることを自ら選択することが重要であると強調されている。

 確かに私達の中には「無条件の愛」(秘密荘厳心)が既に宿っているが故に、人生のあらゆる局面で愛になることを自ら選択することもできるのである。

 例えばどんなに嫌だと思っている人がいても、「無条件の愛」そのものになることを選択しさえすれば、自分の感情を超えてその人に宿る「秘密荘厳心」を信じて愛することはできる。

 そう感情を超えた心こそが、愛であり、秘密の荘厳心であり、私達は愛を出すことによって自らの感情を超えることもできるのだ。私たちはこの愛を完成するために何回も生まれ変わっているのだ。

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一遍の天才・・「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」

 優れた宗教家の悟りと云われているものも、一種の気づきである。

 特にある壁にぶちあたり、それを乗り越えるために悟った宗教家が多い。

 時宗の開祖と云われている一遍上人もその一人である。

  一遍は33歳で再出家して、「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に「一念の信を起こして、南無阿弥陀仏と唱えなさい」と勧めながら、諸国を行脚して回った。

 高野山を経て、阿弥陀の浄土とされていた熊野に入り、一遍はある僧に念仏札を渡そうとしたが、その僧は札を受け取らなかった。その僧が云うには「信心がおこらないので、受け取れば嘘になる」という。周りに人が集まってきたので、一遍はそれでもよいと札を渡した。

 自身の行いに自信をもてなくなった一遍は、熊野本宮へたどりつき、証誠殿の真下にこもった。そのときのことである。

 夢枕に熊野権現が現れ、一遍にこう告げたのだった。 

 

 「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」

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 信心をもっていてもいなくても、どんな人も阿弥陀仏によって往生するのであるから、素直な心で仏を求めて念仏を唱えるだけでよいのだという気づきを一遍は得たのであった。

 この気づきは、一遍にとってまさに「熊野成道」と呼ばれる大きな転機となるのである。

 ここから信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、身分の違いや老若男女を問わず、出会う人々に念仏札を配り、一遍の念仏はまさに日本中に広まっていくことになる。

 昔、空也上人がある人が念仏はどのように唱えるべきなのかと問うたところ、「捨ててこそ」とだけで、他には何ともおっしゃらなかった、と西行法師の『撰集抄』に載せられています。

これは本当に金言です。

 

 念仏を行する者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の判断をも捨て、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理をも捨て、地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸々の宗派の悟りをも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそ、阿弥陀がはるか過去に立てた本願にもっともかなうのです。

  これは、興願僧都という僧に念仏の本当のあり方について尋ねられたことに対する一遍の答えだ。

 この有名な一遍の言葉には、鎌倉仏教の祖師たちーー法然、親鸞、道元、明恵、日蓮らの悟りが凝縮しているようにも見える。

 私の目には、これら祖師たちの悟りが一遍で極まり、その後はないと見た。

 それほどこの一遍の気づき、悟りには重要なものがあるのではないか。

 このように声高に唱えれば、仏もなく我もなく、まして、念仏を声高に唱える中には理屈もありません。
 この現世が浄土なのです。

外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのです。


 あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはありません。人だけが阿弥陀の本願に預かるのではないのです。

 まさに遊行の王者、一遍にあっては、念仏そのものに天地すべてものが一度、溶け込み、無になって、それらが阿弥陀如来の説法、妙なる言葉の響きとして甦っているようにも見える。

 

 このすべてと一つになった境地にあっては、信じる信じないという心も、極楽を願う心も、智慧を誇る心も、地獄を忌み嫌う心も、全てが捨てられ、仏の本願と一つになってあとはただそのまま素直に念仏するしかない。いや、もともと念仏の他には何もなかったのだ。

 

 このような一遍の悟境にあっては、もはや極楽浄土は遠くにあらず、今ここにあるということになる。

 

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宇宙最高の気付き・・空海の悟り

遮那(シャナ)は中央に坐す

遮那は阿誰(だれ)の号(な)ぞ

本是我が心王(しんのう)なり

空海・・「山に遊びて仙を慕う」『遍照発揮性霊集』より

・・現代語訳

大日如来は中央にすわっておられるが、

大日如来とは誰をさすのか?

そのもとは自分の心である。

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 弘法大師・空海に云わせれば、大日如来とは畢竟、自分のことなのである。

 本当の自分が何であるか、ギリギリのところまで追求していくと、宇宙に満つるところの法身・大日如来、つまり無限の光明が本当の自分であったとの気づきを空海は得たというわけである。

 この気づきを「即身成仏」と呼ぶわけだが、私達は何か複雑な修行をやるから仏になれるのではなく、もともと私達の心の深奥に「秘密の荘厳な心」があることに気づくことが大切なのである。

 気づきの中でもこれはもう「宇宙最高の気づき」とも言えるだろう。

 何しろ規模の大きさときたら、無限大の宇宙規模なのだから・・。

 そして大日如来が自分の深奥に居ますことに気づくとくき、私達は空海と同じく驚くべき力を発揮することができるようになるのではないだろうか。

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不生禅の悟り

 不生禅(ふしょうぜん)で有名な盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、江戸時代初期の名僧だ。

 その最大の特色は坐禅ではなく、自分の話を聞いて納得すれば、それでこと足りると太鼓判を押している点である。

 その法話をくまなく網羅しているのが下記の本であり、読んでいると、珪の語調や息遣いまでが聞こえてくるようで、なぜかほっとするものがある。

 話はすこぶる簡単明瞭で、呆気にとられる。

 例えば、ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。 

禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。

今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。

僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
禅師いわく然らば短気は生まれつきではござらぬ。

何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)

人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの

 こんな平易な話の集大成なのだが、読むうちに盤珪の視点が全く違う地点に注がれていることに気づく。

 それは私たちはもともと仏心をもっているところの生きた佛そのものであり、その佛がどうして苦労して佛になる必要があるのか・・という逆説的な説法なのだ。

親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。

余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。

その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。

その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。

その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。今日より活仏心でおる故に、我が宗を仏心宗と言いまする

 私たち人間が人間になることができないように、仏陀が仏陀になることはできない。

 ただ心の眼を開いて、自分が仏陀である事実に気づけばよいのだ。

 もう既に親から産み付けてもらった最高の宝物を持っているというのに、みんな後から出てきた身贔屓の故、そのことを忘却してしまっている。

 だからこの教えを彼は「明眼宗」とも呼んだのである。

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今年の三大読書・・宗教編「盤珪禅師語録」

 今年の三大読書の宗教編は、「盤禅師語録」である。

 不生禅(ふしょうぜん)で有名な盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、江戸時代初期の名僧だ。

 その最大の特色は坐禅ではなく、自分の話を聞いて納得すれば、それでこと足りると太鼓判を押している点である。

 その法話をくまなく網羅しているのがこの本であり、読んでいると、珪の語調や息遣いまでが聞こえてくるようで、なぜかほっとするものがある。

 話はすこぶる簡単明瞭で、呆気にとられる。

 例えば、ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。 

禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。

今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。

僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
禅師いわく然らば短気は生まれつきではござらぬ。

何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)

人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの

 こんな平易な話の集大成なのだが、読むうちに盤珪の視点が全く違う地点に注がれていることに気づく。

 それは私たちはもともと仏心をもっているところの生きた佛そのものであり、その佛がどうして苦労して佛になる必要があるのか・・という逆説的な説法なのだ。

「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。

余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。

その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。

その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。

その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。今日より活仏心でおる故に、我が宗を仏心宗と言いまする」

 私たち人間が人間になることができないように、仏陀が仏陀になることはできない。

 ただ心の眼を開いて、自分が仏陀である事実に気づけばよいのだ。

 もう既に親から産み付けてもらった最高の宝物を持っているというのに、みんな後から出てきた身贔屓の故、そのことを忘却してしまっている。

 だからこの教えを彼は「明眼宗」とも呼んだ。

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一遍上人のすごさ・・人生は遊行である

 一遍上人の生誕地は、愛媛・道後温泉にある宝厳寺です。

 上人真筆の「南無阿弥陀仏」の石碑もあります。

 すべてを捨てて「からっぽ」になり、ただひたすら念仏に専念した上人の悟りは、鎌倉仏教の精神の頂きのようにも思われます。

 念仏という遊行を極めれば、もうそこには唱える自分も仏もない。

 ただ念仏だけが響く極楽の宇宙が広がっており、この宇宙は事々無碍、すべてが共鳴し、そして拝み合っているではありませんか。 

・・よろづ生きとしいけるもの 山河草木 ふく風たつ浪の音までも 念仏ならずといふことなし・・

・・となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏

(由良の法燈国師が印可を与へし歌。上人四十九歳)・・

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     人生は遊行である・・

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今年の三大読書・・宗教編

 仏教史上の名著とも呼んでいいのが、空海の『秘蔵宝鑰』である。
 本書は思想家空海の集大成でもあり、この一冊だけでもその醍醐味を味わうことができる。
 『十住心論』の解説書として上申された本書は、他の仏教思想との違いを明確にするため、「こころ」をキーワードにして、さまざまな仏教思想を比較分類し、真言密教の優位を明確に説明づけようとしている。
 『秘蔵宝鑰』とは、秘められた蔵(真の仏の教え)を開く宝のカギの意で、真言密教を指す。
 淳和天皇の勅命により、天長七年(830)に各宗の教義書を差出したとき、空海は『秘密曼荼羅十住心論』十巻とともにこの『秘蔵宝鑰』三巻を献上した。前者は広本、後者は略本という。
 具体的には、第一住心より第九住心までがのべられて、これらが広義の顕教であるむねを明らかにし、第十住心のみ深秘釈を与えて密教の世界を鮮明ならしめている。
 従って本書のクライマックスは、「こころ」の最高・最終段階にある第十住心、「秘密荘厳心」の説明である。
 この「秘密の心」とは宇宙の中心たる大日如来の明るい光そのものであり、この段階に到達したときに、秘められた蔵を開くことができるというのである。
 まさに「顕薬塵を払い、真言庫をひらく」である。
 真言密教以外の顕教は塵を払うだけだが、空海の説く「真言」に至って初めて宝の庫をひらくことができる、と言うのである。
 簡単に言えば、私たちはみな「佛の子」「神の子」であり、「佛心」「本心」という秘密の荘厳な心を本来、持っているのだ。
 ただその「美しい心」のあることを知らず、その「本心」を晦まして深い眠りについているに過ぎない。
 その深い眠りから目を覚まさせるのが、空海のいう「真言」であり、真理のコトバである。
 宝の蔵は実に私たちの心の中に深く秘められていたのである。
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極楽浄土(天国)はどこにあるか・・

・・極楽浄土(天国)はどこにあるか・・

・・如何にすれば天国を地上に現すことができるか・・

 天国に関するパラダイムシフトをテーマにした電子ブックがありますので、興味のある方はご覧下さい。

 心の眼を開いて、「今ここ」に感謝できれば、そこがそのまま極楽の世界になるかもしれないのです。

 観ずれば花ひらく

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紙一枚の差をとる・・

 幸運の扉を開く人と開かない人には、紙一枚の差があります。

 それはあることを志して立ち上がったか、どうかということです。

 どんなに成功哲学を学んでも、今、決断して立ち上がることがなかったら、結局のところ、夢を実現することはできません。

 例えば偉大な宗教家達の一生を見ていると、どの人生にも決断して立ち上がった瞬間というものがあるものです。

 それは法然であれば「南無阿弥陀仏」という浄土門の選択であり、多くの民衆を救うための旗揚げでした。

 一遍であれば遊行、道元の座禅、日蓮の「南無妙法蓮華経」と彼らは一つのものを選択して、決断してそして志の旗をもって起ち上がったのです。

 そこにはやむにやまれぬ心情があったのであり、彼らにはその後のことは全く予想していなかったでしょう。

 要は人は、志の旗をもって起ち上がったときに、その周囲が宇宙が自然と動き出すということであり、幸運の扉は「決断の志」と「勇気ある行動」が開くのです。

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 一人のリーダーの勇気ある行動が
 幸運の扉を開く

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「からっぽ」になれ・・7

 一遍上人の生誕地は、愛媛・道後温泉にある宝厳寺です。

 上人真筆の「南無阿弥陀仏」の石碑もあります。

 すべてを捨てて「からっぽ」になり、ただひたすら念仏に専念した上人の悟りは、鎌倉仏教の精神の頂きのようにも思われます。

 念仏という遊行を極めれば、もうそこには唱える自分も仏もない。

 ただ念仏だけが響く極楽の宇宙が広がっており、この宇宙は事々無碍、すべてが共鳴し、そして拝み合っているではありませんか。 

・・よろづ生きとしいけるもの 山河草木 ふく風たつ浪の音までも 念仏ならずといふことなし・・

・・となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏

(由良の法燈国師が印可を与へし歌。上人四十九歳)・・

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     人生は遊行である・・

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