カテゴリー「ご皇室」の8件の記事

2012年3月14日 (水)

二つの大震災を結んだ黄色の水仙・・

 今回の東日本大震災と先の阪神大震災を結んだ「黄色の水仙」の話はご存じだろうか。

 東日本大震災で甚大な被害を受けた東北3県を見舞う天皇、皇后両陛下の「癒やしと慰霊の旅」は昨年の4月27日、宮城県から始まったが、テレビでそのご様子を紹介しているアナウンサーもコメンテーターも同行した記者たちも目頭を押さえて泣いていたことをよく覚えている。

 気づくと私の体の中にも熱いものが込み上げてきた。

 被害の大きかった南三陸町を慰問された両陛下は、約200人が避難生活を送る町立歌津中学校体育館を訪問され、被災者とひざをつき合わせ、一人一人に声をかけて慰め、お励ましになった。

 南三陸町の佐藤仁町長は「被災者の皆さんの笑顔を初めて見た」と語っていたが、両陛下の行かれるところ、静かではあるが、確固とした希望の光が灯っていくようであった。

 これは目には見えない「徳の力」のしからしめるところであろう。

 精神科医によると、家族を失うなどの呆然自失している被災した人々や子供たちには、1.受容 2.共感 3.保障というステップを踏んで接する必要があるという。

 両陛下のお見舞いは、避難所の床にひざをつき被災者と直接に向き合って一人ひとりの心に向き合いながら、励ましの言葉をかけていかれており、まさにこの三つのステップを見事に踏まれている。 これは両陛下にしかできない「心の癒し」ではないだろうか。

 被災者の方からすれば、これほどありがたい「共感」「保障」はないであろう。

「私たちは決して一人ではなかった・・ここまで両陛下がまるで親のように考えてお心を砕いてくださっている・・」と。

 両陛下はその後、自衛隊ヘリで仙台市に向かい、約270人の被災者が身を寄せる宮城野体育館をご訪問。

 ここで長く語り伝えられることになるであろう出来事が起こった。

 津波で自宅が全壊した主婦、佐藤美紀子さん(64)が、自宅跡の庭から摘んできた黄色い水仙を皇后さまに見せ、「この水仙のように力強く生きます」と話したのだ。

 皇后さまは「ちょうだいできますか」と受け取り、「頑張ってくださいね」と励まされたという。

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 震災後、津波にも負けず、芽を出した水仙を
 手にされる皇后さま。     【時事通信社】

 水仙と云えば平成5年、阪神淡路大震災直後の1月31日に、両陛下はまだ煙のくすぶる中、被災地を訪問され、皇后さまは多くの死者を出した焼け跡(神戸市長田区の菅原市場)にそっと黄色と白の水仙の花束を手向けられた。

 皇后さまは、皇居から摘んでこられた17本の水仙を自ら束ねて手向けられたのだった。

 この多くの人々の心を癒した水仙が、今度は被災者の方から皇后さまに届けられたのだ。

 自衛隊機で東京に戻られた両陛下だったが、タラップを降りられる皇后さまの手には、黄色い水仙の花束が確かに握られていた。聞くところによると、皇后さまはこの水仙を皇居に活けられて、じっと愛でておられるという。

 まさにこの津波にも負けなかった水仙は「幸福な黄色の水仙」として、東北の復興のシンボルとして語り継がれることになるであろう。

 ちなみに両陛下が平成17年1月、「阪神淡路大震災10周年の集い」を機に、三度目の被災地お見舞いをされた時には、両陛下のお車がお通りになる沿道では、あの黄色の水仙を手にして高く掲げ、歓迎する人たちが沢山いたという。

 この時の光景がよほど皇后さまには印象深く残られたのであろう、翌年の歌会始(御題「笑み」)では次の御歌を発表された。

        笑み交わしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ

   Sisen2
         菅原市場に手向けられた
       皇后さまの黄色の水仙

2011年4月28日 (木)

復興のシンボルとしての黄色の水仙

 東日本大震災で甚大な被害を受けた東北3県を見舞う天皇、皇后両陛下の「癒やしと慰霊の旅」が昨日の27日、宮城県から始まった。

 テレビでそのご様子を拝見していると、それを紹介しているアナウンサーもコメンテーターも同行した記者たちも目頭を押さえて泣いていた。

 気づくと私の体の中にも熱いものが込み上げてきた。

 被害の大きかった南三陸町を慰問された両陛下は、約200人が避難生活を送る町立歌津中学校体育館を訪問され、被災者とひざをつき合わせ、一人一人に声をかけて慰め、お励ましになった。

 南三陸町の佐藤仁町長は「被災者の皆さんの笑顔を初めて見た」と語っていたが、両陛下の行かれるところ、静かではあるが、確固とした希望の光が灯っていくようであった。

 これは目には見えない「徳の力」のしからしめるところであろう。

 精神科医によると、家族を失うなどの呆然自失している被災した人々や子供たちには、1.受容 2.共感 3.保障というステップを踏んで接する必要があるという。

 両陛下のお見舞いは、避難所の床にひざをつき被災者と直接に向き合って一人ひとりの心に向き合いながら、励ましの言葉をかけていかれており、まさにこの三つのステップを見事に踏まれている。 これは両陛下にしかできない「心の癒し」ではないだろうか。

 被災者の方からすれば、これほどありがたい「共感」「保障」はないであろう。

「私たちは決して一人ではなかった・・ここまで両陛下がまるで親のように考えてお心を砕いてくださっている・・」と。

 両陛下はその後、自衛隊ヘリで仙台市に向かい、約270人の被災者が身を寄せる宮城野体育館をご訪問。

 ここで長く語り伝えられることになるであろう出来事が起こった。

 津波で自宅が全壊した主婦、佐藤美紀子さん(64)が、自宅跡の庭から摘んできた黄色い水仙を皇后さまに見せ、「この水仙のように力強く生きます」と話したのだ。

 皇后さまは「ちょうだいできますか」と受け取り、「頑張ってくださいね」と励まされたという。

Kougou
 震災後、津波にも負けず、芽を出した水仙を
 手にされる皇后さま。     【時事通信社】

 水仙と云えば平成5年、阪神淡路大震災直後の1月31日に、両陛下はまだ煙のくすぶる中、被災地を訪問され、皇后さまは多くの死者を出した焼け跡(神戸市長田区の菅原市場)にそっと黄色と白の水仙の花束を手向けられた。

 皇后さまは、皇居から摘んでこられた17本の水仙を自ら束ねて手向けられたのだった。

 この多くの人々の心を癒した水仙が、今度は被災者の方から皇后さまに届けられたのだ。

 自衛隊機で東京に戻られた両陛下だったが、タラップを降りられる皇后さまの手には、黄色い水仙の花束が確かに握られていた。聞くところによると、皇后さまはこの水仙を皇居に活けられて、じっと愛でておられるという。

 まさにこの津波にも負けなかった水仙は「幸福な黄色の水仙」として、東北の復興のシンボルとして語り継がれることになるであろう。

 ちなみに両陛下が平成17年1月、「阪神淡路大震災10周年の集い」を機に、三度目の被災地お見舞いをされた時には、両陛下のお車がお通りになる沿道では、あの黄色の水仙を手にして高く掲げ、歓迎する人たちが沢山いたという。

 この時の光景がよほど皇后さまには印象深く残られたのであろう、翌年の歌会始(御題「笑み」)では次の御歌を発表された。

        笑み交わしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ

   Sisen2
         菅原市場に手向けられた
       皇后さまの黄色の水仙

2011年3月13日 (日)

懸命な救出作業・・

 東日本大震災の発生から3日目を迎えた被災地では、津波の被害がさらに明らかになる中、警察や消防、自衛隊などによる懸命な救出作業が続いています。

 沢山の警察官の方も殉職しておられます。

 まだ瓦礫などの中におられる方が、一人でも助かることを心からお祈り申し上げます。

 ちなみに宮内庁のホームページによると、天皇皇后両陛下には,この度の東北地方太平洋沖地震により,広範な地域にわたって甚大な被害が生じており,時間の経過と共に,報じられる被害状況が刻々と悪化し,拡大していることに深く心を痛めておられ,犠牲者へのお悔やみ,負傷者及び被災者へのお見舞いと共に,災害対策に全力を尽くしている関係者一同の努力を深く多とするお気持ちを,菅総理大臣に対し宮内庁長官を通じてお伝えになったそうです。

 

2010年1月14日 (木)

希望の「光」はある・・「歌会始」に寄せて

御製(天皇陛下のお歌)
木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く小道の真中草青みたり
皇后陛下御歌
君とゆく道の果たての遠白く夕暮れてなほ光あるらし

 本日は「歌会始の儀」が皇居で執り行われた。

 お題は、「光」であったが、テレビの中継に見入っていると、宮中の「松の間」には静かな時間が流れているようだった。

 どんなに世間が政治家の不祥事などで騒がしくても、ここには神聖なる永遠の静謐がある。

 そして国民の歌にただひたすら耳を傾けておられる両陛下には、どんな禍事も浄めて善事に変える御力があるように思われた。

 そんな清冽な河の流れのような、無私の精神に触れることのできる私たちは何と幸福か。

 そう、両陛下はじっと国民の喜怒哀楽の声をただひたすら聴いておられる。

 その傾聴という御行為そのものが、私たちにとっては何よりの慰みと癒しになるのである。

 冒頭に掲げた今年の御製、御歌は不思議なことに「光」の他に「道」という共通の大和言葉が使われている。

 その「道」は昨年、ご成婚50年、即位20年を迎えられたお二人のこれまでの歩みを象徴するとともに、これからの人生の希望(光)がそれぞれ「草青」と「夕暮れ」の光という言葉に託されているようだ。

 夕暮れという人生の晩年を迎えながらも、なお前途に命輝く草木と光を観ようとされる祈りに似た御心は、激動の時代を生きる私たちに確かな希望を示して下さっているのではないだろうか。

 闇がたとえ訪れてもなお輝いている「光」は、確かにあるのである。

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2009年4月29日 (水)

昭和の歌

 昭和天皇が「七十歳になりて」と題して詠まれた御製(昭和45年)に次のものがある。

七十(ななそぢ)の祝ひをうけてかへりみれば

ただおもはゆく思ほゆるのみ


ななそぢを迎へたりけるこの朝も

祈るはただに国のたひらぎ


よろこびもかなしみも民と共にして

年はすぎゆきいまはななそぢ

 まさに昭和という激動の時代をその一身に背負られ、民と共にひたすら歩んでこられた昭和天皇の70年の人生が鮮やかに甦る名歌である。

 思うに昭和は、昭和天皇の「祈るはただに国のたひらぎ」という祈りが、あたかも縦糸の如く貫かれた時代ではなかったろうか。

 その“高貴なる縦糸”に呼応するかのように、多くの人々も精一杯に横糸を綴ろうしたのが昭和であった。

 ちなみにこの縦糸と横糸が見事にハーモニーした御製が、昭和22年の「戦災地視察」と題された次の二首である。

戦のわざはひうけし国民を

おもふ心にいでたちて来ぬ


わざはひをわすれてわれを出むかふる

民の心をうれしとぞ思ふ

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2009年1月 7日 (水)

天皇陛下のご即位20年に寄せて

 天皇陛下が即位されてから本日で20年をお迎えになった。

 この20年を振り返ると、阪神大震災などの災害はもとより、オウム真理教によるサリン事件など、未曾有の出来事が相次いで起こった。

 この間、両陛下は一貫して国家国民のために祈り続けるとともに、多くの被災した人たちを直接慰めてこられた。

 昨年暮れには、天皇陛下は体調を崩され、ご健康が心配されたが、1月2日の新年一般参賀では元気な姿をお見せになり、次のように話された。

「厳しい経済情勢の中にあって、苦労多く新年を迎えている人々が多いのではないかと案じていますが、この年が国民にとり少しでも良い年になるよう願っています」

 私はこの「案じています」という陛下のお言葉に、私たち国民をいつも思っておられる大御心が偲ばれ、感動せずにおれなかった。

 昨年詠まれた御製に次のものがある。

  岩手・宮城内陸地震

   災害に行方不明者の増しゆくを心痛みつつ北秋田に聞く

 宮内庁のホームページによると、平成20年6月、全国植樹祭のため秋田県にお発ちの朝、岩手・宮城内陸地震が発生。秋田県の被災地は南部であり、県北の北秋田市で開催される植樹祭は予定通り行われるとの連絡で、両陛下は東京を発たれたが、災害対応を優先するようにとの思召しから、秋田県知事・県議会議長・県警察本部長の空港お出迎えをお取りやめになり、現地では随従した警察庁長官から随時被災状況のご報告をお受けになった。

  この御製は、行幸啓中次第に明らかになる被害状況にお心をお痛めになる様を詠われたものであるという。

 このように常に国民のことを心配され、その幸福を祈っておられる高貴なるご存在が国の中心にいらっしゃるとは何と有り難いことか!

 どんなに世情が混乱しようとも、わが日本国の中心には、いつも清冽かつ神聖なる泉が湛えているのである・・。

2008年4月29日 (火)

昭和の心

    山色新(歌会始)

山やまの色はあらたにみゆれども我まつりごといかにかあるらん

 これは昭和三年に歌会始で詠まれた昭和天皇の御製だが、「昭和の心」とはまさにこのみ歌に示された「いかにかあるらん」という自からを省みる精神だったと思う。

 君子は一日三省す・・との言葉もあるが、昭和天皇は激動の時代を常に自省されながら、常に国民の幸福を祈り続ける高貴な生涯を貫かれた。

 この「昭和の心」に学ぶものは、「自分の仕事、いかにかあるらん」「自分の生きた方、いかにかあるらん」という問いかけを自らにする必要がある。

 ちなみに昭和天皇は若き日に天皇のあり方について質問されたときに、「日月私照なし」との古典の言葉を引用されたというが、太陽や月のように私心なしにただひたすら光を照射続ける生き方をしたいものである。

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2007年1月 3日 (水)

21世紀の世界の秘宝・・

 新年にあたり天皇陛下は昨年、竜巻などの自然災害により150人もの人命が失われたことに触れられて「痛ましいこと」とご感想を発表された。

 同じく年頭にあたり、宮内庁が発表した天皇陛下の御製には、次のものがある。

 〈大雪〉
 年老いし人あまた住む山里に雪下ろしの事故多きを憂ふ

 〈三宅島〉
 ガス噴出未だ続くもこの島に戻りし人ら喜び語る

 私たちは地震などの自然災害に遭った人々をマスコミなどで報じているときには心を寄せ、寄付をしたりするが、天皇陛下や皇后陛下にあっては、どんなに時が経てもそれらの人々に心を砕き、祈りを捧げておられることは意外と知られてない。

 この真実を知るだけで、どんなにか国民は慰めと心の支えを得ることができるであろうか。

 何も恵まれない人達だけではない。日本国の霊的中心者であらせられる天皇陛下は、いつも心を澄まして国民はもとより世界の人々の“声なき声”をじっと聞いておられるのである。

 この傾聴という行為こそが、世界の人々の苦しみを和らげ、真の世界平和をもたらすのである。両陛下は耳を澄ませながら、傷ついている人がいたら、その手を握りしめ、背中をそっと押される。

 実際、地震などの被害に遭った人達は、この両陛下のお見舞いにまさる慰めはなかった・・と口々に云う。

 私も昨日、一般参賀で皇居に参詣してきたが、天皇陛下や皇后陛下のひたすら国民を祝福されるお姿を拝していると、熱いものがこみ上げて来た。そして不思議に悩み、わだかまりなどが、その高貴なる存在の前で消散霧散していくのを感じたのだった。

 もしフランスの哲学者、ベルクソンが今の世に日本人として生まれていたら、125代も続くご皇室の存在に彼の哲学のエッセンス「持続」と「開かれた社会」のモデルを発見して驚喜し、畏敬の念を表明したに違いない。

 ご皇室とはまさに日本だけでなく、21世紀の世界の秘宝であることを私たち日本人はもっと自覚しなければならないのだ。

☆読者の家族の皆様へ。
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