本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。
特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。
この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。
小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について
詳しく紹介している.
ベルクソンの論点は大きく三つある。
① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。
ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。
ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。
たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。
また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。
ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。
溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。
・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。
② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している
ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。
ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。
同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。
③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している
ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。
・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・
ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った。
「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。
なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。
このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。
結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。
わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。
けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。
それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。
それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。
ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。
☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆
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