カテゴリー「ベルクソン」の83件の記事

2018年4月17日 (火)

ベルクソンVSアインシュタイン・・時間論を巡って

 20世紀の生んだ知の巨人、ベルクソンとアインシュタインはどのように交わり、そして意見を交わしたのか。

 これは、小林秀雄がその未完のベルクソン論「感想」で扱った一大テーマでもありますが、下記の小論「ベルクソンVSアインシュタイン」でもその一端に迫っています。

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小林秀雄はそのベルクソン論の「感想」において、アインシュタインの時空論について次のように指摘している。

「対象の客観性という観念は、アインシュタインによって、誰も考え及ばなかった高度まで、徹底的に推進された」

 注目すべきは、アインシュタインの日記にあるベルクソンに関する感想であり、またベルクソンのアインシュタイン流の時間論に対する言及です。

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アインシュタインは来日する船の中でベルクソンに言及している

 その触りを紹介すると、二人の決定的な差異はその「時間論」にありました。

 ベルクソンアインシュタイン流の時間に対して、それは結局のところ、「紙上の上に存するにすぎない」とも言っています。

 そして生きた時間を取り戻すためには「持続の中に復帰して、実在をその本質である動きにおいてとらえ直さなければならない」(『思想と動くもの』)というのです。

 ベルクソンは「時間と自由」という初期の論文の中で、次のように説いています。

科学は、時間と運動からまずその本質的で質的な要素をーーつまり時間から持続を、そして運動からは運動性をーー除き去るという条件なしにはそれら(運動体)を処理できないのである。

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 ベルクソンのやろうとしたことは、この除去された持続と運動性の回復にあったと云ってもいいと思います。

 もっというと、生命というのが先にあって、その純粋持続から等質的な空間や物理的な時間が生まれてきたのであって、あくまでも「生命」がこそがこの世界の主役であるということを彼は強調したかったのだと思います。

その意味からしても、彼の哲学はやはり「生命哲学」と呼んでいいのであります。

ちなみに前にも紹介した前田英樹氏の「ベルクソン哲学の遺言」の第3章「砂糖が溶ける時間」では、その時間論が実にうまく書かれています。・・

 
ベルクソンvsアインシュタイン

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 ハイデルベルクで「時間」について考える

2017年8月12日 (土)

ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

  これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

 本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

 特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

 この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

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小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

詳しく紹介している.

 ベルクソンの論点は大きく三つある。

① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

 ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

 ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

 たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

 また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

 ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

 溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

 ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

 ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

 ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

 同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

 ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
 あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
 すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

 ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

 なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

 このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

 結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

 わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

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 それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

 ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

2017年7月12日 (水)

魂の進化の法則・・

 ベルクソンが言う「知ラレザル大陸」とは、「死後の世界」と言ってもいいし、未だ発見されていない「宇宙の法則」とも呼んでもいいだろう。ベルクソンは次のように言う。 

 心霊学が確実なケースとして提出しているもののうち、ほんの一部しか受け容れなくても、心霊学がやっとその探索の緒についたばかりのこの「知ラレザル大陸」の広漠を窺うには充分な分量が残る。

この未知の世界からの微光がわれわれへまで届いて、この肉の目に見えたとしよう。

--この場合、ただ目に見え、手で触れられるもののみを、存在するものと考えならわしてきた人類に起こる変化は、いかばかりであろう。

・・「道徳と宗教の二つの源泉」

 この「知ラレザル大陸」を探索する上で、ガイドブックになるのが前回も紹介したラズロの著書『コスモス』である。

 ここで強調されているのは、この宇宙には実は驚くべき一貫性があるのではないか、ということである。

 すなわち宇宙に存在するすべてのもの(太陽、月、星、地球、生物、分子、原子、量子・・)はお互いにつながっており、しかも宇宙には進化するための一貫性が、あまねく存在する、というのである。

 そして『コスモス』によると、私たち人類の使命はコスモスの進化を促すことであという。

 私たちは全一世界(ホールワールド)の一部です。創造されるものであり、みんなでともに創造していくものであります。

私たちは全一世界の組織と秩序に加わり、そこにもともと備わっていながら絶えず蓄積していく知性に触れて、その意識の成長に貢献するのです。

 この宇宙がただ一つの存在「サムシンググレート」から生まれてきたと仮定するならば、全てのものはつながっていて、しかも「進化」という一貫性があまねく貫いているということは十分に考えられることである。

 この世界を深く観察するならば、まるですべてのものがともに廻りながら、踊りながら螺旋階段を上っているようにも見える。

 私たちが目には見えないマインドを通して、自分の周囲に家族、同僚、物、出来事、運命などを心で引きつけているというのも、実はこの一貫性、つまり法則が宇宙を貫いているからではないだろうか。

 心霊学の説くところによれば、私たちはまるで鏡のように現在の魂の発達段階に合わせた人・事・物を引き寄せており、これも互いが学び合って己を磨き、さらに次のステージに立つためであるという。

 このいわば「魂の進化の法則」が私たち人間だけでなく、宇宙のすべてに遍く貫いているということを「新しい文明」では認めることになっていくであろう。

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2017年5月 2日 (火)

「宇宙的目覚めの時代」・・逆境で生まれる新文明

 惑星間の視点から見ると、現在の地球上の人類は大きな逆境にありながらも、その力を借りながら新しい文明の形をつくろうとしている。 

 フランスの哲学者、ベルクソンによると、生命はあらゆる逆境を乗り越える力をもっており、創造的に進化しようとしていると云う。

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 まさに東日本大震災や熊本地震などの痛手から立ち上がろうとしておられる皆様の活躍に私たちが感動するのも、どんな逆境に遭いながらも、それを乗り越えようとしている生命の力、「創造的進化」の力に共感するからに違いない。

  •  ここで大切なのが、山本良一教授のように「宇宙船地球号のグランドデザイン」を描くことである。

  •  山本教授は地球生命圏が環境危機にあるとともに、宇宙船地球号の操縦マニュアルとして「エコ文明」への転換戦略を大胆に提案している。

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     おそらく人類は史上初めて、宇宙的視点から創案した共通の「グランドデザイン」を描くことを求められている。

  •  これをヨーロッパの知の巨人、アーヴイン・ラズロ博士は「ワールドシフト」ととも呼んでいる。

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       「ワールドシフト」を説くラズロ博士

  •  ちなみに龍村仁さんによると、かつてアポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートは次のように語ったことがあったという。 
     

  • 「私達人類は今、宇宙的誕生(コズミックバース)、宇宙的目覚めの時代にさしかかっている」

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     これは、「赤ちゃん(人類)は、生まれ出て(宇宙から地球を見て)初めてお母さん(地球)を自分とは別の存在である、と認識し、そこから、母の一方通行の愛に甘えるだけではなく、母に対する感謝の気持ちや愛を育み、責任感を持つようになる」(龍村さん)という意味だそうだ。

     とすれば、現代文明がトインビーの云う様々な挑戦を受けている現在の逆境は、人類が宇宙的に誕生するための「陣痛」であるとも言える。

  •  人類は「宇宙的目覚めの時代」へ入ろうとしているのである。

     以下、「逆境で生まれる新文明」1回目の序論と2回目以後の論考であり、グランドデザインを描く参考になれば幸いである。

  • ◎逆境で生まれる新文明/総集編◎

    平成23年4月18日付の日経新聞には、「トインビーをもう一度・・不都合な真実に『応戦』を」と題した興味深いコラム(土谷英夫氏)が掲載されていいた。

     そのコラムによると、英国の歴史家トインビーは文明は逆境から生まれると説いていたという。

    ・・文明は自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。

    例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。

    ・・トインビー流に言えば、大地震・大津波という自然的環境からの挑戦と、原子力エネルギーに依存する人間的環境からの挑戦を同時に受けているのが、いまの日本。間違いなく66年前の「敗戦」以来の逆境だ。

    ・・「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という「易経」の一節は、トインビーの文明論の核心をよく言い当てている。

    明治維新でも、終戦後でも、国のかたちを変える改革を断行した。いま変わらなければ、日本は衰退する。

     また、トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげているという。状況に振り回され、応戦できない文明は衰退するというわけである。 
      
     換言すれば、ポジティブに「応戦」できれば、今回の大震災は新しい文明やパラダイムが生まれてくる可能性もあるのではないだろうか。

     例えば惑星間というより大きな視点から見るとき、大震災後、下記の三つのパラダイム転換が起きてきているように思う。

     
    ①拡大したコミュニティー意識の誕生
    ②「自然と共生した文明」への進化
    ③新しい自己像の萌芽

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    逆境で生まれる新文明2・・拡大したコミュニティー意識の誕生 

    逆境で生まれる新文明3・・「自然と共生した文明」への進化

    逆境で生まれる新文明4・・新しい自己像の萌芽

    逆境で生まれる新文明5・・十牛図による新しい自分の発見

    逆境で生まれる新文明6・・惑星的思考へのシフト

    逆境で生まれる新文明7・・ラズロ博士の「ワールドシフト」

    逆境で生まれる新文明8・・課題解決先進国・日本文明のミッション

    逆境で生まれる新文明9・・ジネン(自然)の思想

    逆境で生まれる新文明10・・宇宙的目覚めの時代

    逆境で生まれる新文明11・・ベルクソンの「精神のエネルギー」 

    逆境で生まれる新文明12・・新しい精神の科学 

    逆境で生まれる新文明13・・新しい精神の科学2 

    逆境で生まれる新文明14・・慈悲の文明(悟りの文明)の誕生

    逆境で生まれる新文明15・・祈りの文明へ・・科学と宗教の対話

    逆境で生まれる新文明16・・祈りによる高次元の開拓 

    逆境で生まれる新文明17・・村上和雄氏の説く魂と遺伝子の法則 

    逆境で生まれる新文明18・・「サムシング・グレート」から考える 

    逆境で生まれる新文明19・・コスモス(宇宙)の一貫性 

    逆境で生まれる新文明20・・思考のすごい力 

    逆境で生まれる新文明21・・月面上の思索

    逆境で生まれる新文明22・・創造的に進化する宇宙

    逆境で生まれる新文明最終回・・「知られざる大陸」を求めて

  • 2017年3月22日 (水)

    ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

      これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

     本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

     特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

     この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

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    小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

    詳しく紹介している.

     ベルクソンの論点は大きく三つある。

    ① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

     ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

     ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

     たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

     また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

     ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

     溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

     ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

    ② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

     ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

     ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

     同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

    ③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

     ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

    ・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
     あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
     すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

     ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

    「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

     なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

     このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

     結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

     わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

    けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

    それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

    Bergson

     それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

     ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

    ☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

    2017年2月 8日 (水)

    小林秀雄のベルクソン論・・言葉の帳をとる

     言葉の帳(とばり)は、殆ど信じ難いほど厚い。・・帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在している。・・ベルクソン論「感想」

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     小林の論じたベルクソン論のテーマの一つが、生活の利便性のためにつくられた「言葉の帳」をとって実在を如何に観るか、ということであった。

     私達は日常生活の地盤のうちで、物に対しても外側に、私達自身に対しても外側に生きる事に慣れ切ってしまっている。

      •  この慣性を打ち破って、対象そのものと一つになること。

       

    •  「言葉の帳」で覆うのではなく、知覚の拡大により本物に触れること。
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     小林はこのベルクソンに習ったことをそのまま徹底的に実践しようとした。

     それを実践するにあたって、見本となるのが芸術家たちだ。

     「詩人や芸術家とは、この帳が、薄くなり、透明になった人達」(感想)であり、小林の批評とは言葉や認識の帳をとって、実在に推参することであった。

     この帳は厚いもので、自然や私達だけを覆っているのではない。

     近代の人間がその価値観で帳をつけた歴史上の天才達にもあてはまる。

     本居宣長は、天才的な文献主義者であったが、どうしてあのような幼稚な信仰を持つに到ったのか・・と云った“近代の帳”をかなぐり捨てて、天才の肉声に迫ろうとしたのがあの大作『本居宣長』であった。

     それはとにかく、今年は一度、「言葉の帳」を捨てて、直に周囲のものを観る冒険に旅立ってみるのもいいのではないだろうか。

     何も遠くに行く必要はない。近くの神社に詣でて、そこにある竹林や古木を虚心に観ることも、りっぱな「知覚(近く)の冒険」ではないだろうか。

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    近くの神社で。節から芽は伸びる。

    逆境も新たな芽を伸ばす絶好の機会。

    2017年2月 2日 (木)

    「地球外生命体」の可能性とベルクソンの生命論

    かつて米航空宇宙局(NASA)が、ケプラー望遠鏡を通して生物が生息可能な地球サイズの惑星を54個発見したと発表したことがあった。

     地球外生命体が存在し得るものであり、また、遠い未来においては、人類移住というテーマにつながる可能性もあるそうである。

     NASAによると、銀河系には200以上の地球サイズの惑星が存在し、さらに、水もあって生物が居住可能と見られる惑星はそのうち54あったという。ケプラーシステムの責任者ウィリアム・ボルッキ氏が確認した。

     すでに検出していた約1200の惑星候補の中から、さらに調査を行い、54という結果に絞り込まれたという。

     ちなみにケプラーは2009年に打ち上げられた探査機で、恒星の明るさを測定している。

     さて、フランスの哲学者、ベルクソンが「地球外生命体」の可能性について言及していたことはあまり知られていない。

     もっともこれは彼の生命論からくるところの推測なのだが、今読んでも興味深いものがある。

    「生命が出会う条件は千差万別だろうから、それのとる形態はこのうえなく多種多様となり、われわれの想像とは極度にかけ離れているではあろう。

    …宇宙のわが地球なる部分では、いなおそらく、この太陽系全体をとってみても、そのような存在者が生まれてきうるには、彼らは一つの種を形づくるほかはなかった。

    …太陽系以外の場所では、一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体ーーそれもやはり多数であり、また可死だとはしてもーーのみが存在しているかもしれぬ。

    この場合ではまた、そうした個体は一挙に、そして完全な形で実現されたであろう」・・・『道徳と宗教の二つの源泉』

    Bergson

    生命の本質について考察したベルクソン
     

     ベルクソンによれば、わが地球上においては生命の「大いなる創造力の流れ」が物質の強い抵抗を受けて、十全な形では開花しなかったというのである。

    生命の種も見方を変えれば、その「大いなる創造力の流れ」の停止を意味し、死んでいるとも云える。

     それに対して、他の惑星では全く異なる生命の顕現のプロセス、つまり「一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体」も考えられると云うのである。

     詳しくは下記の論文を参照していただきたいが、21世紀が生命について地球上だけでなく、もっとスケールの大きな宇宙的視点から考察する時代になっていくことは確かであろう。

    ベルクソン・ルネッサンス

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    ケプラーの惑星候補(NASA/Wendy Stenzel)

    2016年8月24日 (水)

    笑いは「大いなる創造力の流れ」に還る最高の方法・・

     「生命の哲学」と云えば、ベルクソンに「笑い」という名著がある。

     この著作でも「大いなる創造力の流れという生命の哲学が中心にある。

     野呂芳男さんも、「笑いの構図」という優れた論文の中でベルクソンの「笑い」について次のように言及している。

    ベルクソンによると、人間は自分たちが環境に適応して生きて行くために、近代になっては機械文明さえも作りあげてきたのだが、機械は人間の生のもつ創造的な柔軟性、しなやかさを持っていない。

     そこでベルクソンは、「生の躍動」が人間に与えてくれたしなやかさに対照的なものの例として機械を持ち出す。

     ベルクソンにとって、笑いは「注意深いしなやかさと生きた屈伸生とがあって欲しいそのところに、一種の機械的なこわばりがある点」に生れる。

     「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである」。・・

     つまり、ベルクソンにとって「笑い」とは生命のもともと持つ「しなやかさ」「大いなる流れ」に戻すための「矯正作用」なのである。

     「笑い」の中のベルクソンの名言を引用してみよう。

    虚栄心の特効薬は笑いであり、
    そして本質的に笑うべき欠点は虚栄心である。

    引き離れてみたまえ、われ関せずの見物人となって生に臨んでみたまえ。
    多くのドラマは喜劇に変ずるであろう。


    笑いもあぶく玉を立てる。それは陽気である。
    がしかし、それを味わうためにこの泡を採集する哲学者は、
    時としてそこに、ほんの少量だが、一抹の苦味を嘗めさせられるであろう。

    Bergson

     ベルクソンにとって「笑い」とは、「しなやかなもの、不断に変化するもの、生きているものに対するこわばったもの、出来合いのもの、機械的なもの、注意に対する放心、つまり自由活動に対する自動現象」を矯正するものだったのである。

     一言で言えば、「笑い」には固定化したものをもとの「生命の流れ」に戻す力があるのである。

     私たちは大笑いすることで、生命の源・ソースに還ることができるとともにそこから生命の爆発的な力を引き出すこともできるのだ。 

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     「笑い」には宇宙の生命力を引き出す力がある・・ 

    2016年7月27日 (水)

    「地球外生命体」の可能性とベルクソン

     かつて米航空宇宙局(NASA)が、ケプラー望遠鏡を通して生物が生息可能な地球サイズの惑星を54個発見したと発表したことがあった。

     地球外生命体が存在し得るものであり、また、遠い未来においては、人類移住というテーマにつながる可能性もあるそうである。

     NASAによると、銀河系には200以上の地球サイズの惑星が存在し、さらに、水もあって生物が居住可能と見られる惑星はそのうち54あったという。ケプラーシステムの責任者ウィリアム・ボルッキ氏が確認した。

     すでに検出していた約1200の惑星候補の中から、さらに調査を行い、54という結果に絞り込まれたという。

     ちなみにケプラーは2009年に打ち上げられた探査機で、恒星の明るさを測定している。

     さて、フランスの哲学者、ベルクソンが「地球外生命体」の可能性について言及していたことはあまり知られていない。

     もっともこれは彼の生命論からくるところの推測なのだが、今読んでも興味深いものがある。

    「生命が出会う条件は千差万別だろうから、それのとる形態はこのうえなく多種多様となり、われわれの想像とは極度にかけ離れているではあろう。

    …宇宙のわが地球なる部分では、いなおそらく、この太陽系全体をとってみても、そのような存在者が生まれてきうるには、彼らは一つの種を形づくるほかはなかった。

    …太陽系以外の場所では、一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体ーーそれもやはり多数であり、また可死だとはしてもーーのみが存在しているかもしれぬ。

    この場合ではまた、そうした個体は一挙に、そして完全な形で実現されたであろう」・・・『道徳と宗教の二つの源泉』

    Bergson

    生命の本質について考察したベルクソン
     

     ベルクソンによれば、わが地球上においては生命の「大いなる創造力の流れ」が物質の強い抵抗を受けて、十全な形では開花しなかったというのである。

    生命の種も見方を変えれば、その「大いなる創造力の流れ」の停止を意味し、死んでいるとも云える。

     それに対して、他の惑星では全く異なる生命の顕現のプロセス、つまり「一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体」も考えられると云うのである。

     詳しくは下記の論文を参照していただきたいが、21世紀が生命について地球上だけでなく、もっとスケールの大きな宇宙的視点から考察する時代になっていくことは確かであろう。

    ベルクソン・ルネッサンス

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    ケプラーの惑星候補(NASA/Wendy Stenzel)

    2016年6月28日 (火)

    ベルクソンVSアインシュタイン・・時間論を巡って

     20世紀の生んだ知の巨人、ベルクソンとアインシュタインはどのように交わり、そして意見を交わしたのか。

     これは、小林秀雄がその未完のベルクソン論「感想」で扱った一大テーマでもありますが、下記の小論「ベルクソンVSアインシュタイン」でもその一端に迫っています。

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    小林秀雄はそのベルクソン論の「感想」において、アインシュタインの時空論について次のように指摘している。

    「対象の客観性という観念は、アインシュタインによって、誰も考え及ばなかった高度まで、徹底的に推進された」

     注目すべきは、アインシュタインの日記にあるベルクソンに関する感想であり、またベルクソンのアインシュタイン流の時間論に対する言及です。

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    アインシュタインは来日する船の中でベルクソンに言及している

     その触りを紹介すると、二人の決定的な差異はその「時間論」にありました。

     ベルクソンアインシュタイン流の時間に対して、それは結局のところ、「紙上の上に存するにすぎない」とも言っています。

     そして生きた時間を取り戻すためには「持続の中に復帰して、実在をその本質である動きにおいてとらえ直さなければならない」(『思想と動くもの』)というのです。

     ベルクソンは「時間と自由」という初期の論文の中で、次のように説いています。

    科学は、時間と運動からまずその本質的で質的な要素をーーつまり時間から持続を、そして運動からは運動性をーー除き去るという条件なしにはそれら(運動体)を処理できないのである。

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     ベルクソンのやろうとしたことは、この除去された持続と運動性の回復にあったと云ってもいいと思います。

     もっというと、生命というのが先にあって、その純粋持続から等質的な空間や物理的な時間が生まれてきたのであって、あくまでも「生命」がこそがこの世界の主役であるということを彼は強調したかったのだと思います。

    その意味からしても、彼の哲学はやはり「生命哲学」と呼んでいいのであります。

    ちなみに前にも紹介した前田英樹氏の「ベルクソン哲学の遺言」の第3章「砂糖が溶ける時間」では、その時間論が実にうまく書かれています。・・

     
    ベルクソンvsアインシュタイン

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     ハイデルベルクで「時間」について考える

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