カテゴリー「光の詩集」の33件の記事

「ああ、もったいなし」の口癖が人生を変える・・

 詩人・山村暮鳥の詩集「雲」には、「もったいなし」をフレーズにした名作が沢山掲載されています。

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病休の詩
朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿体なし
そのひとつびとつよ

おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寝ながらにして
月をみるとは


おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんぼうだからこそ
こんないい月もみられる

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月からの「地球見」・・ああ、もったいなし 

 私たちも本当は「もったいなし」の出来事に取り囲まれているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれません。

 この「ああ、もったいなし」を口癖にすれば、

 「当たり前病」から脱却して

 私たちの人生はたちどころに光輝くものに一変するのではないでしょうか。 

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 「太陽さん、いつもありがとう

   ああ、もったいなし」

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「からっぽ」になれ・・「真空の法則」1

坂村真民先生に「からっぽ」と題した詩があります。

頭を

からっぽにする

胃をからっぽにする

心をからっぽにする

そうすると

はいってくる

すべてのものが

新鮮で

生き生きしている

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      「真空の法則」を生きる

 詩人は、まさに平易な言葉で宇宙の真実について語る達人です。

 特に真民先生の詩からは沢山の気づきと勇気をもらうことができます。

 ビジネスのアイデアがほしければ、これまでの固定観念を捨てて「からっぽ」になれば、必要なアイデアが自然に「はいってくる」のです。

 健康がほしければ、「病気を治したい」という心を「からっぽ」にすれば、健康な生命の流れが自然に「はいってくる」のです。

 お金がほしければ、財布から不要なレシートやポイント・カードなどを一掃して「からっぽ」になれば、必要な富は必ず自然に「はいってくる」のです。

 悟りがほしければ、心も体もサムシング・グレートに全部おまかせして「からっぽ」にすれば、その偉大なる存在から悟りが回向して自然に「はいってくる」のです。

 このすべてを空っぽにすることで希望を成就させることを「真空の法則」とも呼びます。

 この宇宙には真空を嫌う性質があり、空っぽのところに自然と生命のエネルギーが流れ入ってくるようにできているのです。

 例えば河の流れの一部に真空地帯をつくればたちどころに、水の流れがその空を埋めようとします。

 ちなみにやましたひでこさんによると、「断捨離」とは、ガラクタを「捨てる」とともに必要でないものを「断ち」、執着から「離れる」生き方だそうです。

 この「断捨離」で「部屋」が変わると「心」も変わり、家そのものが「パワー・スポット」になるというのです。

 その意味では自分自身も毎瞬、毎瞬心を空っぽにしてゼロになるとき、何でも創造できる「パワー・スポット」にすることができるのです。

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   空のように「からっぽ」になれ・・

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「ああ、もったいなし」の口癖が人生を変える・・

 詩人・山村暮鳥の詩集「雲」には、「もったいなし」をフレーズにした名作が沢山掲載されています。

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病休の詩
朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿体なし
そのひとつびとつよ

おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寝ながらにして
月をみるとは


おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんぼうだからこそ
こんないい月もみられる

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月からの「地球見」・・ああ、もったいなし 

 私たちも本当は「もったいなし」の出来事に取り囲まれているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれません。

 この「ああ、もったいなし」を口癖にすれば、

 私たちの人生はたちどころに光輝くものに一変するのではないでしょうか。 

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 「太陽さん、いつもありがとう

   ああ、もったいなし」

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死者の語り部としての詩人たち・・リルケ、小林秀雄の至高体験

 若松英輔さんの『神秘の夜の旅』に登場する越知保夫をはじめ、小林秀雄、井筒俊彦、マルセル、リルケ、ドストエフスキーなどに共通するのは、目に見えない“至高なる存在”を信じていたことだろう。

 彼らは信じていただけでなく、その臨在をまざまざと感じていた。

 それは自分を超えた存在を体験する「至高体験」(マズロ)であったとも言えるだろう。

 そして詩人たちはその体験から何物かを語り始める“語り部”となるのである。

 若松さんの霊性にあふれた言葉を引用してみよう。

詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。

むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。

彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

「過去の日の大浪」が意味するのは死者である。

読み進めれば、示唆というにはあまりに直接的な経験が、リルケにあったことがわかるだろう。(『神秘の夜の旅』135~136頁)

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リルケだけではない。小林秀雄にも、井筒俊彦にも、マルセルにも死者から「委託」された「直接的な経験」、つまり「至高体験」があったのである。

 小林秀雄の批評に至っては、彼が天才たちとの霊と直接会話しながら書いたのではないか、と思われる表現が随所に見られる。

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 その意味では、彼の批評とは死者を呼び出し、彼らと対話する「祈り」でもあったのではないか。

 彼はひたすら無私になって、天才たちからの「呼びかけ」を待っているのである。

 若松さんの引用しているリルケの詩を紹介しよう。

風に似てふきわたりくる声を聴け、

静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。

あれこそあの若い死者たちから来るおまへの呼びかけだ。

かつておまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに

かれらの運命はしずかにおまえに話しかけたではないか。

また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように

死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

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   ハイデルベルクの古城跡にて

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光の中を生きる・・詩人の眼

 「サクラ」の名の由来としては、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だからサクラという説もあるという。

 この神のやってくる季節は、また死について意識する時でもある。

 死があることを意識して生きるとき、忽然として見える風景が変わることがある。

 一旦、自分の眼を捨てて「そのままの心」で世界を見直すのだ。

 その点、詩人は“死人”でもあり、もう一つの視点を持っている。

 高見順が死ぬ一年前に創った詩「電車の窓の外」は、“末期の眼”で観た風景が歌われている。

電車の窓の外は

光にみち

喜びにみち

いきいきといきづいている

この世ともうお別れかとおもうと

見なれた景色が

急に新鮮に見えてきた

この世が

人間も自然も

幸福にみちみちている

だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ

それが私の悲しみを慰めてくれる

私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙がでそうになる

Sakura5

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人間も自然も幸福に満ちている・・

「サクラ」の名の由来としては、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だからサクラという説もあるという。

 この神のやってくる季節は、また死について意識する時でもある。

 死があることを意識して生きるとき、忽然として見える風景が変わることがある。

 詩人は“死人”でもあるのだ。

 青木新門さんの『納棺夫日記』によると、作家、高見順は死ぬ一年前に「電車の窓の外」という詩を遺していたという。

 この詩は、まさに芥川龍之介の言う“末期の眼”で観た「光の世界」が見事に歌われている。

 私たちの心は大概、過去や未来をふらふら行き来しているが、「今ここ」に焦点をあわせて生きるとき、幸福感は飛躍的に増大するのだ。

電車の窓の外は

光にみち

喜びにみち

いきいきといきづいている

この世ともうお別れかとおもうと

見なれた景色が

急に新鮮に見えてきた

この世が

人間も自然も

幸福にみちみちている

だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ

それが私の悲しみを慰めてくれる

私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙がでそうになる

Sakura5

人間も自然も幸福に満ちている・・

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至高なるものからの呼びかけ・・リルケの直接経験

若松英輔さんの『神秘の夜の旅』に登場する越知保夫をはじめ、小林秀雄、井筒俊彦、マルセル、リルケ、ドストエフスキーなどに共通するのは、目に見えない“至高なる存在”を信じていたことだろう。

 彼らは信じていただけでなく、その臨在をまざまざと感じていた。

 それは自分を超えた存在を体験する「至高体験」(マズロ)であったとも言えるだろう。

 そして詩人たちはその体験から何物かを語り始める“語り部”となるのである。

 若松さんの霊性にあふれた言葉を引用してみよう。

詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。

むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。

彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

「過去の日の大浪」が意味するのは死者である。

読み進めれば、示唆というにはあまりに直接的な経験が、リルケにあったことがわかるだろう。(『神秘の夜の旅』135~136頁)

リルケだけではない。小林秀雄にも、井筒俊彦にも、マルセルにも死者から「委託」された「直接的な経験」、つまり「至高体験」があったのである。

 小林秀雄の批評に至っては、彼が天才たちとの霊と直接会話しながら書いたのではないか、と思われる表現が随所に見られる。

 その意味では、彼の批評とは死者を呼び出し、彼らと対話する「祈り」でもあったのではないか。

 彼はひたすら無私になって、天才たちからの「呼びかけ」を待っているのである。

 若松さんの引用しているリルケの詩を紹介しよう。

風に似てふきわたりくる声を聴け、

静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。

あれこそあの若い死者たちから来るおまへの呼びかけだ。

かつておまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに

かれらの運命はしずかにおまえに話しかけたではないか。

また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように

死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

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   ハイデルベルクの古城跡にて

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「もったいなし」の世界・・

詩人・山村暮鳥の詩集「雲」には、「もったいなし」をフレーズにした名作が沢山掲載されています。

病休の詩
朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿体なし
そのひとつびとつよ

おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寝ながらにして
月をみるとは


おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんぼうだからこそ
こんないい月もみられる

 私たちも本当は「もったいなし」の出来事に取り囲まれているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれません。

 この「ああ、もったいなし」を口癖にすれば、

 私たちの人生はたちどころに光輝くものに一変するのではないでしょうか。

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  月からの「地球見」・・ああ、もったいなし 

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「光と風を聴く」4・・人も自然も幸福にみちている

「サクラ」の名の由来としては、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だからサクラという説もあるという。

 この神のやってくる季節は、また死について意識する時でもある。

 死があることを意識して生きるとき、忽然として見える風景が変わることがある。

 詩人は“死人”でもあるのだ。

 青木新門さんの『納棺夫日記』によると、作家、高見順は死ぬ一年前に「電車の窓の外」という詩を遺していたという。

 この詩は、まさに芥川龍之介の言う“末期の眼”で観た「光の世界」が見事に歌われている。

 私たちの心は大概、過去や未来をふらふら行き来しているが、「今ここ」に焦点をあわせて生きるとき、幸福感は飛躍的に増大するはずなのである。

電車の窓の外は

光にみち

喜びにみち

いきいきといきづいている

この世ともうお別れかとおもうと

見なれた景色が

急に新鮮に見えてきた

この世が

人間も自然も

幸福にみちみちている

だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ

それが私の悲しみを慰めてくれる

私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙がでそうになる

Sakura5

人間も自然も幸福に満ちている・・

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「光と風を聴く」3・・全てが輝いている

 私たちが普通、「世界」と認識しているものは、実は本当に在る「光の世界」の影を見ているにすぎない。

 プラトンの有名な洞窟の比喩ではないが、私たちは洞窟の奥に向かって座って、闇の世界だけを見ているのかもしれないのだ。

 ところが、ここに何かの拍子で、洞窟の奥から振り返って、外の「光の世界」を見た人々がいる。

 私たちの知覚は、普段は日常の生活の利便性だけに対応しているが、何かの拍子にオルダス・ハクスリーのいう「知覚の拡大」が起こることがある。

 例えば、死期を間近にしたとき、人は別な「光のメガネ」をかけて、今ここにある世界の真の輝きを捉えることがあるようである。

 飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―で有名な井村和清という32歳の若さで亡くなった医師は、癌の肺への転移を知った時、何気ない風景が違ったものとして見え始める。

その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。

世の中がとっても明るいのです。

スーパーへ来る買物客が輝いて見える。

走りまわる子供たちが輝いて見える。

犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いて見えるのです。

アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほどに尊く見えました。

 
 
これに近い体験をした方も多いに違いない。

 私たちは今ここ・・

 本当はとてつもない

 「光の世界」に住んでいるのかもしれないのだ。Rimg0046

       熱海の日の出・・ 

 

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫) Book 飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫)

著者:井村 和清
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