カテゴリー「ドストエフスキー」の20件の記事

ドストエフスキーの創造した天使・・アリョーシャの復活の体験

 井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

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 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

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 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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ドストエフスキーの「永遠の今」の体験

  井筒俊彦が、ドストエフスキーの途方もない作品」(小林秀雄)に見た「新しい人間」「新生活」とは具体的には何だったのだろうか。

 若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒の言葉を紹介しながら、次のように言う。・・『叡知の哲学』114頁

「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった。

「ここでひとつ諸君に秘密を教えてあげようか。

これは、もしかすると、最初から最後まで、ぜんぜん夢なんかではないかもしれないのだ! 

なぜなら、夢には決して出てくるはずのない、恐ろしいほどの真実がそこで生じたからである」(「おかしな人間の夢」太田正一訳)。

人はそれを幻だと嘲っても、自分には目の前にあるコップを触るような、それ以上の現実感がある。

ドストエフスキーの偉大さは、何ものかを「見た」点にあるのではない。

そのヴィジョンの指し示す世界を、実現しようと生涯を捧げたところにある。

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 井筒俊彦自身も・・彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた・・『ロシア的人間』で言及している。

 キリスト教的信仰で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景をドストエフスキーは描こうとした、とするのである。

 井筒によると、ドストエフスキーにとって、「通常の人間の思惟・感覚を超絶する永遠の秩序が、我々の現実的生活の次元に、どこから侵入して来て、現にそこで働いているという事実は、誰から教えてもらうまでもなく、彼にとってあまりにも自明なことであった」と云う。

 なぜなら、ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさにその「神の国」の「永遠の秩序」を垣間見ていたからだ。

 ・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。

 永遠性の直観、「永遠調和」の体験。それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。

それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。

人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。

これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。

『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より

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 この「永遠の調和」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、彼の「途方もない作品」に繰り返し描かれている。

 それは、「人間実存の根源的変貌、表層的『自我』から深層的『自我』への転換、もっとくだいて言えば、人間を根底からつくりかえること」(「人間存在の現代的状況と東洋哲学」)、つまり「新しい人間」として復活することであった。

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ドストエフスキーの復活体験 ・・天使・アリョーシャの創造

筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

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  ドストエフスキーの天才

 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

罪の秩序から愛の秩序へ。

罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。

ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。

それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。

・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

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 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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ドストエフスキーの「永遠の今」の体験

  井筒俊彦が、ドストエフスキーの途方もない作品」(小林秀雄)に見た「新しい人間」「新生活」とは具体的には何だったのだろうか。

 若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒の言葉を紹介しながら、次のように言う。・・『叡知の哲学』114頁

「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった。

「ここでひとつ諸君に秘密を教えてあげようか。

これは、もしかすると、最初から最後まで、ぜんぜん夢なんかではないかもしれないのだ! 

なぜなら、夢には決して出てくるはずのない、恐ろしいほどの真実がそこで生じたからである」(「おかしな人間の夢」太田正一訳)。

人はそれを幻だと嘲っても、自分には目の前にあるコップを触るような、それ以上の現実感がある。

ドストエフスキーの偉大さは、何ものかを「見た」点にあるのではない。

そのヴィジョンの指し示す世界を、実現しようと生涯を捧げたところにある。

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 井筒俊彦自身も・・彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた・・『ロシア的人間』で言及している。

 キリスト教的信仰で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景をドストエフスキーは描こうとした、とするのである。

 井筒によると、ドストエフスキーにとって、「通常の人間の思惟・感覚を超絶する永遠の秩序が、我々の現実的生活の次元に、どこから侵入して来て、現にそこで働いているという事実は、誰から教えてもらうまでもなく、彼にとってあまりにも自明なことであった」と云う。

 なぜなら、ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさにその「神の国」の「永遠の秩序」を垣間見ていたからだ。

 ・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。

 永遠性の直観、「永遠調和」の体験。それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。

それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。

人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。

これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。

『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より

51k6nyu8vll

 

 この「永遠の調和」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、彼の「途方もない作品」に繰り返し描かれている。

 それは、「人間実存の根源的変貌、表層的『自我』から深層的『自我』への転換、もっとくだいて言えば、人間を根底からつくりかえること」(「人間存在の現代的状況と東洋哲学」)、つまり「新しい人間」として復活することであった。

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   フランクフルトの麦畑   

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ドストエフスキーの創造した天使・・アリョーシャの復活の体験

 井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

200pxdostoevskij_1872

  ドストエフスキーの天才

 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

51k6nyu8vll

 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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一枚の葉っぱに全宇宙を見る

若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒俊彦の言葉を紹介しながら、「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった・・と書いている。・・『叡知の哲学』114頁

 確かにドストエフスキーが我々の現実とは違う“新世界”を見ていたことは間違いない。彼にしてみれば、その“新世界”は既に完璧であり、どこにも悪いものがない。

そしてこの“新世界”の方が本物であり、普段私たちの見ている現実世界の方がニセモノかもしれないのだ。

 例えば、ドストエフスキーの名著の一つである『悪霊』では、キリーロフという自殺する男が、主人公で大悪党のスタヴローギンと次のような興味深い会話をしている。

「あなたは木の葉を見たことがありますか、木から落ちた葉っぱを?」

「ありますよ」(スタヴローギンが答える)

「私はこの間、ふちの方がもう枯れてしまった、黄色い、いくらか緑がかったのを見ました。風で飛んで来たんです。

私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。

私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした」

「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」

「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。

私の言っているのは木の葉です。

ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです」

「何もかも?」

「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。

それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に

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これがまさに絶望のどん底にいる二人の会話だとはとても思えないだろう。

このキリーロフは癲癇もちで、その発作の時の体験を次のように話している。

「その時の気持ちは、もうまったく明澄そのもので、そこに議論をさしはさむ余地なんか全然ありはしない。

まるで突然、全宇宙をそっくりそのまま直観して

「そうだ、これでよし」

と肯定するような気持ちなんだ。

それはちょうど、神が世界を創造するときに、創造の一日一日の終わるごとに

「しかり、これでよし」

と云われたのと同じようなものさ。

ただ有頂天になってしまうことじゃない、なんとなくしいんと静まり返った法悦なんだ。

その時には、もはや赦すというようなことはできない、なぜって赦すべきものなんか何一つ残らないんだもの」

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 ドストエフスキーの大作は混沌とした宇宙であり、登場人物の何気ないセリフに途方もない真理を語らせている部分もあるから、どんな些少と想われるセリフも注意して読む必要がある。

 それがたとえ、大酒のみであり、好色家であったり、大悪党の言葉であったとしても・・。

 特に先のキリーロフの人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」はまさに名言である。

  ちなみに岐阜・オークビレッジの稲本正さんは、このドストエフスキーの箇所を読んで、「やはりドストエフスキーは天才だ」と思ったという。

・・「葉っぱ一枚の中にも宇宙がある」というようなことも書いているが、「都会で人間の内面を掘り下げながら、ついには宇宙の真理まで洞察しているのだなぁ」とも思った。
・・稲本さんの本より

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  一枚の葉っぱに全宇宙を見る
   ・・フランクフルトにて

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ドストエフスキーの創造した天使・・アリョーシャの復活の体験

 井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

1102902263


 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

51k6nyu8vll

 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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「一枚の葉っぱに全宇宙を見る」・・ドストエフスキーの啓示

 若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒俊彦の言葉を紹介しながら、「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった・・と書いている。・・『叡知の哲学』114頁

 確かにドストエフスキーが我々の現実とは違う“新世界”を見ていたことは間違いない。彼にしてみれば、その“新世界”は既に完璧であり、どこにも悪いものがない。

そしてこの“新世界”の方が本物であり、普段私たちの見ている現実世界の方がニセモノかもしれないのだ。

 例えば、ドストエフスキーの名著の一つである『悪霊』では、キリーロフという自殺する男が、主人公で大悪党のスタヴローギンと次のような興味深い会話をしている。

「あなたは木の葉を見たことがありますか、木から落ちた葉っぱを?」

「ありますよ」(スタヴローギンが答える)

「私はこの間、ふちの方がもう枯れてしまった、黄色い、いくらか緑がかったのを見ました。風で飛んで来たんです。

私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。

私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした」

「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」

「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。

私の言っているのは木の葉です。

ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです」

「何もかも?」

「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。

それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に

これがまさに絶望のどん底にいる二人の会話だとはとても思えないだろう。

このキリーロフは癲癇もちで、その発作の時の体験を次のように話している。

「その時の気持ちは、もうまったく明澄そのもので、そこに議論をさしはさむ余地なんか全然ありはしない。

まるで突然、全宇宙をそっくりそのまま直観して

「そうだ、これでよし」

と肯定するような気持ちなんだ。

それはちょうど、神が世界を創造するときに、創造の一日一日の終わるごとに

「しかり、これでよし」

と云われたのと同じようなものさ。

ただ有頂天になってしまうことじゃない、なんとなくしいんと静まり返った法悦なんだ。

その時には、もはや赦すというようなことはできない、なぜって赦すべきものなんか何一つ残らないんだもの」

 ドストエフスキーの大作は混沌とした宇宙であり、登場人物の何気ないセリフに途方もない真理を語らせている部分もあるから、どんな些少と想われるセリフも注意して読む必要がある。

 それがたとえ、大酒のみであり、好色家であったり、大悪党の言葉であったとしても・・。

 特に先のキリーロフの人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」はまさに名言である。

  ちなみに岐阜の稲本正さん(オークビレッジ代表)は、このドストエフスキーの箇所を読んで、「やはりドストエフスキーは天才だ」と思ったという。

・・「葉っぱ一枚の中にも宇宙がある」というようなことも書いているが、「都会で人間の内面を掘り下げながら、ついには宇宙の真理まで洞察しているのだなぁ」とも思った。
・・稲本さんの本より

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  一枚の葉っぱに全宇宙を見る
   ・・フランクフルトにて・・

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天使、アリョーシャの回心・・

  筒俊彦が強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

Rapasuisen

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一枚の葉っぱに宇宙を観る・・

 若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒俊彦の言葉を紹介しながら、「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった・・と書いている。・・『叡知の哲学』114頁

 確かにドストエフスキーが我々の現実とは違う“新世界”を見ていたことは間違いない。彼にしてみれば、その“新世界”は既に完璧であり、どこにも悪いものがない。

そしてこの“新世界”の方が本物であり、普段私たちの見ている現実世界の方がニセモノかもしれないのだ。

 例えば、ドストエフスキーの名著の一つである『悪霊』では、キリーロフという自殺する男が、主人公で大悪党のスタヴローギンと次のような興味深い会話をしている。

「あなたは木の葉を見たことがありますか、木から落ちた葉っぱを?」

「ありますよ」(スタヴローギンが答える)

「私はこの間、ふちの方がもう枯れてしまった、黄色い、いくらか緑がかったのを見ました。風で飛んで来たんです。

私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。

私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした」

「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」

「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。

私の言っているのは木の葉です。

ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです」

「何もかも?」

「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。

それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に

これがまさに絶望のどん底にいる二人の会話だとはとても思えないだろう。

このキリーロフは癲癇もちで、その発作の時の体験を次のように話している。

「その時の気持ちは、もうまったく明澄そのもので、そこに議論をさしはさむ余地なんか全然ありはしない。

まるで突然、全宇宙をそっくりそのまま直観して

「そうだ、これでよし」

と肯定するような気持ちなんだ。

それはちょうど、神が世界を創造するときに、創造の一日一日の終わるごとに

「しかり、これでよし」

と云われたのと同じようなものさ。

ただ有頂天になってしまうことじゃない、なんとなくしいんと静まり返った法悦なんだ。

その時には、もはや赦すというようなことはできない、なぜって赦すべきものなんか何一つ残らないんだもの」

 ドストエフスキーの大作は混沌とした宇宙であり、登場人物の何気ないセリフに途方もない真理を語らせている部分もあるから、どんな些少と想われるセリフも注意して読む必要がある。

 それがたとえ、大酒のみであり、好色家であったり、大悪党の言葉であったとしても・・。

 特に先のキリーロフの「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」はまさに名言である。

  ちなみに岐阜の稲本正さん(オークビレッジ代表)は、このドストエフスキーの箇所を読んで、「やはりドストエフスキーは天才だ」と思ったという。

・・「葉っぱ一枚の中にも宇宙がある」というようなことも書いているが、「都会で人間の内面を掘り下げながら、ついには宇宙の真理まで洞察しているのだなぁ」とも思った。
・・稲本さんの本より

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一枚の葉っぱに全宇宙を見る
 ・・フランクフルトにて

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