「意識と存在の構造モデル」5・・完全な神との合一
井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」(三角形)を使うと、様々な神秘家や哲人たちの悟りに至る道を概観することができるようになる。
例えばベルクソンの晩年の大作「道徳と宗教の二つの源泉」では、キリスト教の神秘家たちが次の段階を踏んで神との合一に至ったことを紹介している。
ベルクソンはこの神秘家たちこそは「完全な神秘主義」に至っていたとする。
①転身のための序曲
↓
②前方への跳躍のための「闇夜」の経験
↓
③完全な神との合一
この③の「完全な神との合一」の地点が、井筒のモデルで言えば、三角形の頂点にあたる。
あらゆる神秘家は転身のきっかけとなる出来事を体験するとともに、魂の「闇夜」の体験をしながら、さらに三角形の頂点を目指して向かって左側の辺を上昇していく。
そして「絶対無」という頂点に達した魂は、今度は右側の辺を自ずと下降していくことになる。
具体的には、ベルクソンは「完全な神秘主義」を実現した人々として、キリスト教の聖パウロ、聖テレジア(スペインの神秘家でカルメル山修道団の創始者)、シェナの聖カテリナ、聖フランシス、ジャンヌ・ダルクなどの名前をあげる。
ベルクソンはそれらの個々の事例には深入りすることなく、「完全な神秘主義」に至る特徴を指摘している。
特に十六世紀スペインのカルメル会的神秘主義には、井筒俊彦と同じく西洋の神秘主義におけるクライマックスを見ていたようで、彼が晩年、その研究のためにスペイン語の修得に努めた話は有名だ。
ベルクソンは「完全な神秘主義」に至った魂の状態を次のように詳説している。
もう、ここからあとは、魂にとって満ち溢れてくる生があるだけだと言おう。
あるものはただ、尋常ならぬ、巨大なエランである。
魂は抗うに術もない力に押され、魂はこのうえもなく広大な企図のうちへ投げ込まれる。
魂の全能力が静かに昂揚する結果、魂の視界は広げられ、魂は弱くとも、その実現する力は逞しくなる。
わけても、魂は以前とは違ってすべてを単純に見るようになっており、この単純さが言行いずれにおいても目立ってくる。
魂は、この単純無雑に導かれて、錯雑したーーとはいえ、その目にははいりさえしまいがーーさまざまな状況を突破してゆくのである。
……こうした魂の自由は神の活動と一つなのである。
この努力、堅忍力や持久を見れば、そこには精力の巨大な消費のあることがわかるが、このエネルギーは、必要なだけすぐさま恵与される。
なぜなら、そこに必要な、惜しみなき活力の充溢が流れ出てくる源泉は、それこそ生の源泉そのものにほかならぬのだから。
ここに至れば、さまざまな観照も、もはやはるかな背後にある
ここでは魂はすでに神性で満たされているのだから、神格の顕現は魂の外からのものではありえない。
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