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2019年10月26日 (土)

「意識と存在の構造モデル」4・・イブン・アラビーの「存在一性論」

井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」=三角形モデルの頂点は、神秘家・哲人たちで様々な表現をされてきた。


例えば老荘の「道」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」「空」、禅の「無」などである。

 イスラムではスフラワルディーは「光」と呼び、イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。

 ここで云う「存在」とは存在者という意味ではなく、「宇宙に遍在し十方に貫流する形而上学的生命的エネルギー」のことを指すという。

 この宇宙に遍満する「生命的エネルギー」が自己限定、自己分節していくことによって、すべての存在世界が展開していくというのだ。

 従ってイブン・アラビーの「存在一性論」にあっては、例えば「ここに花がある」とは言わない。

「存在が花する」「ここで存在が花している」というような哲学的なメタ言語を使うことになる。

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     「存在がバラしている」

 田中さんであれば、「存在が田中さんしている」といった奇妙な日本語になる。

 もっと言うと、三角形の頂点から見ると、世界が全く違うものとして見え始めるのだ。

 「意識と本質」の井筒の言葉を借りるならば、・・「無」の全体がそのまま花となり鳥となる・・のだ。

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     マレーシアのモスクにて

 ちなみに井筒によると、イブン・アラビーなどのイスラムの大神秘家たちは次のような考え方を持っていたという。


「哲学の訓練を経ない神秘家になんていうものは酔っ払いにすぎないし、

他方、神秘主義的体験のない哲学者なんていうものは、

概念的にしかものを考えることのできない

明き盲みたいな合理主義者であって、

存在の真相などわかりっこない」

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2019年10月25日 (金)

意識と存在の構造モデル3・・無の関門を通る




 「神秘の夜」は、井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」にあっては、どうしても通らなければならない「無の関門」でもある。

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 彼の構造モデルにあっては、あらゆる神秘家や哲人は三角形のモデルの頂点を通らなければ、昼という現象を去って、「実在という夜」に推参することはできない。

 「夜の世界」では、昼間の五感を中心とした判断・推測は通用しない。

 むしろ、「昼の世界」の先入観をきれいに流し去って、一度、無になる必要がある。

 そして無になるだけでなく、その世界に超入して「神秘の夜の世界」を実際に旅する必要があるのだ。

 前にも触れたが、井筒俊彦や小林秀雄がドストエフスキーの世界に見ていたのは、この「夜の世界」における魂の復活である。

 一度、死んで甦る必要があるのだ。

 ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさに「神秘の夜」を旅し、その「夜の国」「永遠の秩序」を垣間見ていた。

 


 ・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。

永遠性の直観、「永遠調和」の体験。

それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。


それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。

人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。

これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。

井筒俊彦『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より

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 この「永遠の今」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、「神秘の夜の旅」の目的なのである。

 

 

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    ハイデルベルクの旅・・

2019年10月 1日 (火)

意識と存在の構造モデル2・・存在とはコトバである

 およそ哲学なるものは意識と存在の起源について、根源的に問いかけるものである。

 井筒俊彦が真言密教の僧侶たちを前に行った講演「言語哲学としての真言」では、その起源が見事に語られている。

 まさに前回紹介した「意識と存在の構造モデル」としての三角形の頂点たる一点が大日如来であり、この大光明たる法身からすべてのものが生み出されてくるのである。

 つまり、大日如来自身の説法、その自己分節こそがこの宇宙の実相だというのである。そして私たちの意識もその説法の中で生まれてくる・・。

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 そのサワリを少し紹介してみよう。

 この講演では、「存在とはコトバである」という命題が取り上げられるとともに、西欧の言語学はもとより、イスラームの文字神秘主義などから真言密教を照射して、「真言」を新たな言語哲学としてを現代に甦らすことに成功している。

 空海の「五大に皆響あり、十界に言語を具す」という言葉に象徴されるように、真言密教では仏の世界から地獄のどん底まであらゆる存在世界はコトバを語っているとする。

 つまりすべてが大日如来の説法であり、これを「法身説法」という。

 特にこの大日如来のコトバの開始点が「阿字」であり、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われている。

 井筒によると、異次元のコトバの極限状態においては

「シニフィエ、つまり意味が零度に近く希薄化し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音の方が、異常な力、宇宙的に巨大な力となって現れてきます。

これが、真言密教のコトバ構造におけるア音の原初的形態であります。

すなわち、この極限的境位では、大日如来のコトバはアという一点、つまりただひとつの絶対シニフィアンなのであります」云う。


 この絶対シニフィアンの発声とともに言葉が始まり、言葉が始まるまさにそのところに意識と存在の原点が置かれるのであります。

人がアと発声する、まだ特定の意味は全然考えていない。

しかし、自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。

ア声の発声を機として、自己分節の働きを起こした大日如来のコトバは、アからハに至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的なエネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ねていきます。

そして、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに響を喚び、名を喚び、物を生み、天地万物を生み出していきます。

「五大に響あり」と言われるように、それは地水火風空の五大悉くをあげての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界にわれわれが認識する一切の認識対象の悉くが、文字なのであります。

 こうして、全存在世界をコトバの世界とし、文字の世界、声と響の世界とする真言密教の世界観が成立します。

すなわち、イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッバーラの場合と同じく、真言密教においても、存在世界は根源的にエクリチュール空間であり、そのエリクチュール空間は、声鳴り響く空間なのであります。

「読むと書くーー井筒俊彦エッセイ集」・・「言語哲学としての真言」

 

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 ハイデルベルクにて真言について思索する

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