« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

成功とは円熟すること・・小林秀雄の成功哲学

成功とは、遂行された計画ではない。

何かが熟して実を結ぶ事だ。

其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。

何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。(「還暦」)

Hideo

天才的数学者、岡潔は、数学者は職業にたとえるならば百姓に似ているとと言ったという。

 アイデアという種を大地にまいて、丹念に手入れをする中で実るのを待ち、収穫をするからである。

 小林秀雄がここで言っている境地も、ある着想なるものが熟して実を結ぶことの大切さである。

 おそらく今の成功哲学がどこかに置き忘れているのが、この円熟の思想である。

 私たちは何かを計画し、遂行することによって、成功するのではない。

 あるテーマという種を丹念に育て、それが自ずと熟してくることによって成功するのである。

 それは小林が取り上げたゴッホ、ドストエフスキー、本居宣長などの天才論を見ればよくわかる。

 最初にある直感を得ながらも、小林は実に丹念に天才達と付き合い、熟するのを待つ。ただひたすら待つのである。

 この時間をかけて「待つ」という営みこそが、小林の批評の神髄である。

 みんなどうして、ファーストフードみたいに作品を料理したがるのか。

 早く料理しようとすればするほど、作品の命はすりぬけていってしまうではないか・・。

そんな小林のため息が聞こえて来るのは私だけであろうか。

517yorq9lol__ss500_

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「惑星意識」への進化・・意識革命を起こす本

  地球人にパラダイムシフトを起こして意識革命を起こす三冊を紹介しよう。 

いずれも「意識の拡大」、物の見方の革命を促している。

 まずは「地球環境問題を仏教に問う 温暖化地獄を仏教・密教は救えるか」で、山本良一竹村牧男, ,  松長 有慶の三氏という 環境学者×宗教学者×僧侶の対談本である。

 宗教、仏教、そして真言密教は地球環境のために何ができるのだろう・・大きな問いかけに三人の識者がそれぞれの思いをぶつけており、哲学書としても一級品と見た。

 そして地球環境問題を解決する上で、今後避けて通れないのは「個人のライフスタイルの変革」であり、そのためのヒントを、仏教、密教の教義の中に探っていくのだが、環境問題と言う21世紀最大の問題に、仏教の教義、組織形態、ライフスタイルなどが改めて照らし出されてその存在意義と新しい可能性が見えてくるところが興味深い。

 思うに環境問題は、科学と宗教の垣根を超えて、人類の意識レベルを「惑星意識」にしていく可能性を秘めている。

 特に弘法大師空海の説いた「即身成仏」というコトバが、環境問題によって新たな意味と可能性をもって蘇りつつある点は注目すべきである。

 大日如来と一つになることはどういうことなのか。

 そこに咲いている小さな草花も大日如来の分身であり、自分自身ということにはなるまいか。

 とすれば、人類は自分自身でもある地球の自然を自ら破壊していることになる。

 このような「意識の拡大」なしに環境問題の根本的な解決にはならないのではないか。

 ちなみに現在の環境問題の日本のオピニオンリーダーである山本良一氏は、真言密教のマンダラ図に触発されて「環境マンダラ」なるものを考案している。
      

292

 二冊目は本ブログでも繰り返し紹介してきた小林秀雄と井筒俊彦という現代日本を代表する知性、哲学者の共通項に迫った若松英輔さんの叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦である。

この本の帯にある・・

「哲学者は詩人たり得るか? 

日本古典の思想性を「詩」の言葉で論じた小林秀雄――。

古今・新古今の歌に日本の哲学を見出した井筒俊彦――。

二人の巨人を交差させ、
詩と哲学の不可分性に光をあてる、清廉な一冊。 」

 という言葉にすべてが言い尽くされている。

 二人の哲学的巨人を交差させ、詩と哲学の不可分性に光をあてる時に見えてくる世界・・。

 このブログでも繰り返し紹介しているが、この二人の巨人が追求したのは、存在の実相に迫り、実際に体験するとともに、それを己の文体で表現するという営みである。

 イスラムの神秘哲学者が追求した「神秘家かつ哲学者」の道をこの二人ほど極めた人はいないように思う。

 その取り扱った対象は違っても、その対象に対する迫り方はあまりにも酷似している。

 例えばギリシャの哲人たちに、二人は「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。

 この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

 観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

 神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

 アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。

観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。

それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。

ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

41ndgs0mzl__sx336_bo1204203200__2

 

 三冊目はあなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。 1秒でこの世界が変わる70の答え」。

 ひすいこたろうさんの本はほとんど読んできたが、この書はひすいさん流、「物の見方ガイドブック」の決定版と見た。

 とにかく、爆笑しながら、自分の「物の見方」が柔軟になっていくのがわかるのである。

世界は白いキャンバスなんです。

だからこそ、みんなが喜びを感じられるように、楽しくなるように、世界を自由に解釈すればいいんです。

・・どう解釈するか、認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。

あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。

つまりあなたこそ、世界の救世主だったのです。

だから、神社のご神体は鏡なんです。

神様に拝んでいるとき、鏡に写っているのは拝んでいるあなた自身です。

あなたが変われば、

鏡に映るこの世界も一秒で変化します。

 

 514x4sh9hpl__sx355_bo1204203200_

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リルケ、小林秀雄の至高体験

 

 若松英輔さんの『神秘の夜の旅』に登場する越知保夫をはじめ、小林秀雄、井筒俊彦、マルセル、リルケ、ドストエフスキーなどに共通するのは、目に見えない“至高なる存在”を信じていたことだろう。らは信じていただけでなく、その臨在をまざまざと感じていた。

 それは自分を超えた存在を体験する「至高体験」(マズロ)であったとも言えるだろう。

 そして詩人たちはその体験から何物かを語り始める“語り部”となるのである。

 若松さんの霊性にあふれた言葉を引用してみよう。

詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。

むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。

彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

「過去の日の大浪」が意味するのは死者である。

読み進めれば、示唆というにはあまりに直接的な経験が、リルケにあったことがわかるだろう。(『神秘の夜の旅』135~136頁)

51i35juerwl

リルケだけではない。小林秀雄にも、井筒俊彦にも、マルセルにも死者から「委託」された「直接的な経験」、つまり「至高体験」があったのである。

 小林秀雄の批評に至っては、彼が天才たちとの霊と直接会話しながら書いたのではないか、と思われる表現が随所に見られる。

51xwigrxxhl__ss500_

 その意味では、彼の批評とは死者を呼び出し、彼らと対話する「祈り」でもあったのではないか。

 彼はひたすら無私になって、天才たちからの「呼びかけ」を待っているのである。

 若松さんの引用しているリルケの詩を紹介しよう。

風に似てふきわたりくる声を聴け、

静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。

あれこそあの若い死者たちから来るおまへの呼びかけだ。

かつておまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに

かれらの運命はしずかにおまえに話しかけたではないか。

また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように

死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

Rimg0123

   ハイデルベルクの古城跡にて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »