« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

  これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

 本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

 特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

 この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

23007000808

小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

詳しく紹介している.

 ベルクソンの論点は大きく三つある。

① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

 ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

 ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

 たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

 また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

 ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

 溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

 ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

 ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

 ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

 同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

 ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
 あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
 すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

 ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

 なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

 このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

 結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

 わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

Bergson

 それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

 ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

| | コメント (0) | トラックバック (0)

逆境で生まれる新文明・・意識革命を起こす本

地球人にパラダイムシフトを起こして意識革命を起こす三冊を紹介しよう。 

いずれも「意識の拡大」、物の見方の革命を促している。

 まずは「地球環境問題を仏教に問う 温暖化地獄を仏教・密教は救えるか」で、山本良一竹村牧男, ,  松長 有慶の三氏という 環境学者×宗教学者×僧侶の対談本である。

 宗教、仏教、そして真言密教は地球環境のために何ができるのだろう・・大きな問いかけに三人の識者がそれぞれの思いをぶつけており、哲学書としても一級品と見た。

 そして地球環境問題を解決する上で、今後避けて通れないのは「個人のライフスタイルの変革」であり、そのためのヒントを、仏教、密教の教義の中に探っていくのだが、環境問題と言う21世紀最大の問題に、仏教の教義、組織形態、ライフスタイルなどが改めて照らし出されてその存在意義と新しい可能性が見えてくるところが興味深い。

 思うに環境問題は、科学と宗教の垣根を超えて、人類の意識レベルを「惑星意識」にしていく可能性を秘めている。

 特に弘法大師空海の説いた「即身成仏」というコトバが、環境問題によって新たな意味と可能性をもって蘇りつつある点は注目すべきである。

 大日如来と一つになることはどういうことなのか。

 そこに咲いている小さな草花も大日如来の分身であり、自分自身ということにはなるまいか。

 とすれば、人類は自分自身でもある地球の自然を自ら破壊していることになる。

 このような「意識の拡大」なしに環境問題の根本的な解決にはならないのではないか。

 ちなみに現在の環境問題の日本のオピニオンリーダーである山本良一氏は、真言密教のマンダラ図に触発されて「環境マンダラ」なるものを考案している。
      

292

 二冊目は本ブログでも繰り返し紹介してきた小林秀雄と井筒俊彦という現代日本を代表する知性、哲学者の共通項に迫った若松英輔さんの叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦である。

この本の帯にある・・

「哲学者は詩人たり得るか? 

日本古典の思想性を「詩」の言葉で論じた小林秀雄――。

古今・新古今の歌に日本の哲学を見出した井筒俊彦――。

二人の巨人を交差させ、
詩と哲学の不可分性に光をあてる、清廉な一冊。 」

 という言葉にすべてが言い尽くされている。

 二人の哲学的巨人を交差させ、詩と哲学の不可分性に光をあてる時に見えてくる世界・・。

 このブログでも繰り返し紹介しているが、この二人の巨人が追求したのは、存在の実相に迫り、実際に体験するとともに、それを己の文体で表現するという営みである。

 イスラムの神秘哲学者が追求した「神秘家かつ哲学者」の道をこの二人ほど極めた人はいないように思う。

 その取り扱った対象は違っても、その対象に対する迫り方はあまりにも酷似している。

 例えばギリシャの哲人たちに、二人は「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。

 この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

 観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

 神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

 アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。

観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。

それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。

ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

41ndgs0mzl__sx336_bo1204203200__2

 

 三冊目はあなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。 1秒でこの世界が変わる70の答え」。

 ひすいこたろうさんの本はほとんど読んできたが、この書はひすいさん流、「物の見方ガイドブック」の決定版と見た。

 とにかく、爆笑しながら、自分の「物の見方」が柔軟になっていくのがわかるのである。

世界は白いキャンバスなんです。

だからこそ、みんなが喜びを感じられるように、楽しくなるように、世界を自由に解釈すればいいんです。

・・どう解釈するか、認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。

あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。

つまりあなたこそ、世界の救世主だったのです。

だから、神社のご神体は鏡なんです。

神様に拝んでいるとき、鏡に写っているのは拝んでいるあなた自身です。

あなたが変われば、

鏡に映るこの世界も一秒で変化します。

 

 514x4sh9hpl__sx355_bo1204203200_

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の再構築

 震災後の激変の中で問われているのが、前回も触れた「新しい自己像」の再構築ではないだろうか。

 井筒俊彦博士の言う我々の実存の中心を『自我』のレベルから『自己』のレベルに移行」させるためには、意識の焦点を表層から深層へと深めていく必要がある。

 井筒博士の場合、イブン・アラビーなどのスーフィーや東洋哲学の途轍もなく広い精神的鉱脈を探りながら、深層の自己へと深めていくには共通したパターンがあることを明らかにした。

 詳しくは「イスラーム哲学の原像」という名著を参照いただきたいが、簡単に言うと、多くの哲人・神秘家に共通するのが、往相・還相の悟りへの道を歩むということである。

井筒博士はこの中で「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図を描いている。すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置き、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

51q07cbbqul__ss500_


 この意識と存在の構造モデルは、仏教の禅で言えば「十牛図」が見事に現しているように思う。

 横山紘一氏「十牛図入門--『新しい自分』への道」によると、この十牛図には「自己究明」「生死解決」「他者救済」という人生の三大目的が現されているという。

 ちなみにこの悟りのマップとも言うべき「十牛図」では、牛に象徴される悟りを求める少年が牛の足跡を見つけ、居場所を発見し、つかまえ、飼い慣らし、牛の背に乗って家に帰ってゆくプロセスを前半の6段階が表している。(①尋牛②見跡③見牛④得牛⑤牧牛⑥騎牛帰家)

 が、⑦ の「忘牛存人」になると一転してその“ 悟りの象徴” であるところの牛が消えてしまい、⑧ の「人牛倶忘」に至っては牛のみならず人も忘れ去られて全くの白紙が描かれている。そして⑨ の「返本還源」では川が流れ、花が咲く、自我を超えた自然の姿が描かれ、⑩の「入廓垂手」(にってんすいしゅ)では世間の路で少年と老人が出合うシーンが描かれている。

 つまりこの「十牛図」では、“頓得の悟り”からいろいろの段階を経て悟りが深まっていく過程が図形化されており、悟り= 牛を追いかけていたことも忘れて無我の境に入るとともに自然や人との一体感を自覚することが“ 本当の悟り” であると示されているのである。

 横山氏の言葉を借りれば、この「十牛図」には三種類の自分が描かれているという。

  1.  偽りの自分
  2.  新しい自分
  3.  真の自分

 とすれば、大震災後の激変は、「偽りの自分」を脱ぎ捨てて「新しい自分」を発見し、さらには宇宙と一つの「真の自分」を見いだす「悟りの機会」を与えたとも言えるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の誕生

 東日本大震災などで明らかになってきた新潮流は、コミュニティの拡大や「自然と共生する文明」へのシフトに伴う「新しい自己像」の誕生である。

 他ならぬ私たち人類の間で「全ては一つ」という新しい世界観ともっと拡大した自己像が誕生してきているのではないだろうか。

 この「新しい自己像」アーヴィン・ラズロ「人類の意識の進化」とも呼んでいる。

D0136354_1115572


 現在の地球は、今回の大震災はもとより、地球環境問題、頻発するテロ、異なる宗教的信条の違いによる軋轢、文化、人種、肌の色、言語、政治的信念の違いによる摩擦など、まるで沸騰した一つの鍋の中で全ての問題が煮立っているような状況である。

また今回の震災では世界中の人々の善意が集まるというポジティブな面も見られる。

 まして発達したインターネット網がそれらを一つにつないでより沸騰する速度を高めている。

 これらに加えて、宇宙の根本法則である進化の波動が、この悩める惑星には宇宙線のように無数に降り注いでいるように見えるのだ。

 このような地球温暖化も含めて加速度的に出来事を早めている動きは、実はラズロの云う「人類の意識の進化」も促しているのではないだろうか。

 日本が産んだ世界的哲人の一人、井筒俊彦博士は、このようなグローバル化、地球的社会にあっては、何よりも人間そのものを作り変える必要があると説いておられた。

それ(地球社会化)に内在する深刻な危険をはっきり意識しながらも、

しかもなお、我々が人類文化のグローバラゼーションの理念を信じ、『地球社会』の理想的な形での形成に向って進んで行こうと望むのであれば、

何よりも先ず我々は、我々自身を作り変えなければならない。

すなわち、我々の実存の中心を『自我』のレベルから『自己』のレベルに移行させなければならない。

あるいは、より正確に言うなら、『自我』を『自己』の表層的一部として、それを『自己』の多層構造全体のなかに定位しなおすことによって、完全に変質させなければならないでありましょう。 

井筒俊彦博士『意味の深みへ』

「人間存在の現代的状況と東洋哲学」から

 簡単に言えば、エゴという狭い自我から、セルフという拡大した自己へと私たちの実存の中心を移行させる必要があるのである。

 この転換を図る上で、参考になるのが井筒俊彦博士の「イスラム哲学の原像」や横山紘一氏の「十牛図入門--『新しい自分』への道」などの唯識論である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »