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イブン・アラビーの「存在一性論」

  井筒の三角形モデルの頂点は、神秘家・哲人たちで様々な表現をされてきた。

 例えば老荘の「道」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」「空」、禅の「無」などである。

 イスラムではスフラワルディーは「光」と呼び、イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。

 ここで云う「存在」とは存在者という意味ではなく「宇宙に遍在し十方に貫流する形而上学的生命的エネルギー」のことを指すという。

 この宇宙に遍満する「生命的エネルギー」が自己限定、自己分節していくことによって、すべての存在世界が展開していくというのだ。

 従ってイブン・アラビーの「存在一性論」にあっては、例えば「ここに花がある」とは言わない。「存在が花する」「ここで存在が花している」というような哲学的なメタ言語を使うことになる。田中さんであれば、「存在が田中さんしている」といった奇妙な日本語になる。

 三角形の頂点から見ると、世界が全く違うものとして見え始めるのだ。

 ちなみにイブン・アラビーなどのイスラムの神秘家たちは次のような考えを持っていた。

「哲学の訓練を経ない神秘家になんていうものは酔っ払いにすぎないし、他方、神秘主義的体験のない哲学者なんていうものは、概念的にしかものを考えることのできない明き盲みたいな合理主義者であって、存在の真相などわかりっこない」

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     「存在がスミレしている」?

 

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弁栄聖者の「存在一性論」

 井筒俊彦の 「イスラーム哲学の原像」には、「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図が描かれている。

 すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置かれ、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

 そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

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 井筒俊彦

 例えば弁栄(べんねい)聖者といえば、徹底した念仏によって如来とは「一大観念」であり、「一大心霊」との悟りに達した近代日本の生んだ偉大な宗教家・哲人である。

 そしてその心霊とは「光明」そのものであるとして、「光明会」を創始したのであるが、あの数学者の岡潔も私淑しておられたのであり、その悟りに基づく広大な観念哲学は、若松英輔さんが言うようにイブン・アラビーの世界を彷彿とさせるものがある。

 若松さんの引用している弁栄の言葉とその説明を紹介してみよう。

宇宙唯一の法身の手によりて成生したる万有なれば大は宇宙全体より太陽も地球も所有万物もいかに微細なる一切の個体は一大法身の分身なる個々なれば、個々は小法身なり。

・・中略・・しからば有る人が個法身の万物いかに微細なるも神を宿し能わざるほどの微細なるものなしと。(「万有生起論」)

・・イブン・アラビーが超越者を「存在」と呼ぶように、弁栄は「みおや」「法身」あるいは「神」と書く。

「神」の一語すら、一者の自己顕現・自己限定・自己分節的表現でしかないことを示す彼の強い意図がある。

『井筒俊彦--叡知の哲学』第10章「叡知の哲学」428~429頁

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弁栄聖者

 弁栄は「一大法身」を「一大心霊」とも呼び、この心霊の心に浮かび上がってきたところの観念が宇宙万物として造化・展開していくのである。

 しかも「小法身」たる私たちも「念仏三昧」により、「一大法身」たる「ミオヤ」と一つになることができるという。

 弁栄聖者は24歳の時に筑波山に二ヵ月こもって日夜念仏をとなえる厳しい修行をしている。

 米麦そば粉だけで飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること毎日徹底的に実践遂に「一心法界三昧」の境地に出たというのである。

 弁栄聖者によると、「一心法界三昧」とは、この宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだという。

 我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるが、「念仏三昧」の境地にはいるとき、自己と環境、自分と他人、さらには時間と空間の制限などあらゆる二元性を超えた世界に出ることができるという。

 この「念仏三昧」によって、自己の心が二元性を超えた「一大法身」の世界と一つになったのが「一心法界三昧」だというのである。

 まるで井筒俊彦の語るイブン・アラビーの「存在一性論」を聴いているようではないか。

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  一大法身の説法する世界・・

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小林秀雄のベルクソン論・・言葉の帳をとる

 言葉の帳(とばり)は、殆ど信じ難いほど厚い。・・帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在している。・・ベルクソン論「感想」

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 小林の論じたベルクソン論のテーマの一つが、生活の利便性のためにつくられた「言葉の帳」をとって実在を如何に観るか、ということであった。

 私達は日常生活の地盤のうちで、物に対しても外側に、私達自身に対しても外側に生きる事に慣れ切ってしまっている。

    •  この慣性を打ち破って、対象そのものと一つになること。

     

  •  「言葉の帳」で覆うのではなく、知覚の拡大により本物に触れること。
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 小林はこのベルクソンに習ったことをそのまま徹底的に実践しようとした。

 それを実践するにあたって、見本となるのが芸術家たちだ。

 「詩人や芸術家とは、この帳が、薄くなり、透明になった人達」(感想)であり、小林の批評とは言葉や認識の帳をとって、実在に推参することであった。

 この帳は厚いもので、自然や私達だけを覆っているのではない。

 近代の人間がその価値観で帳をつけた歴史上の天才達にもあてはまる。

 本居宣長は、天才的な文献主義者であったが、どうしてあのような幼稚な信仰を持つに到ったのか・・と云った“近代の帳”をかなぐり捨てて、天才の肉声に迫ろうとしたのがあの大作『本居宣長』であった。

 それはとにかく、今年は一度、「言葉の帳」を捨てて、直に周囲のものを観る冒険に旅立ってみるのもいいのではないだろうか。

 何も遠くに行く必要はない。近くの神社に詣でて、そこにある竹林や古木を虚心に観ることも、りっぱな「知覚(近く)の冒険」ではないだろうか。

 Fushi

近くの神社で。節から芽は伸びる。

逆境も新たな芽を伸ばす絶好の機会。

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「地球外生命体」の可能性とベルクソンの生命論

かつて米航空宇宙局(NASA)が、ケプラー望遠鏡を通して生物が生息可能な地球サイズの惑星を54個発見したと発表したことがあった。

 地球外生命体が存在し得るものであり、また、遠い未来においては、人類移住というテーマにつながる可能性もあるそうである。

 NASAによると、銀河系には200以上の地球サイズの惑星が存在し、さらに、水もあって生物が居住可能と見られる惑星はそのうち54あったという。ケプラーシステムの責任者ウィリアム・ボルッキ氏が確認した。

 すでに検出していた約1200の惑星候補の中から、さらに調査を行い、54という結果に絞り込まれたという。

 ちなみにケプラーは2009年に打ち上げられた探査機で、恒星の明るさを測定している。

 さて、フランスの哲学者、ベルクソンが「地球外生命体」の可能性について言及していたことはあまり知られていない。

 もっともこれは彼の生命論からくるところの推測なのだが、今読んでも興味深いものがある。

「生命が出会う条件は千差万別だろうから、それのとる形態はこのうえなく多種多様となり、われわれの想像とは極度にかけ離れているではあろう。

…宇宙のわが地球なる部分では、いなおそらく、この太陽系全体をとってみても、そのような存在者が生まれてきうるには、彼らは一つの種を形づくるほかはなかった。

…太陽系以外の場所では、一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体ーーそれもやはり多数であり、また可死だとはしてもーーのみが存在しているかもしれぬ。

この場合ではまた、そうした個体は一挙に、そして完全な形で実現されたであろう」・・・『道徳と宗教の二つの源泉』

Bergson

生命の本質について考察したベルクソン
 

 ベルクソンによれば、わが地球上においては生命の「大いなる創造力の流れ」が物質の強い抵抗を受けて、十全な形では開花しなかったというのである。

生命の種も見方を変えれば、その「大いなる創造力の流れ」の停止を意味し、死んでいるとも云える。

 それに対して、他の惑星では全く異なる生命の顕現のプロセス、つまり「一つ一つがすっかり違う個体、種を形づくらぬ個体」も考えられると云うのである。

 詳しくは下記の論文を参照していただきたいが、21世紀が生命について地球上だけでなく、もっとスケールの大きな宇宙的視点から考察する時代になっていくことは確かであろう。

ベルクソン・ルネッサンス

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ケプラーの惑星候補(NASA/Wendy Stenzel)

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