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ドストエフスキーの「永遠の今」の体験

  井筒俊彦が、ドストエフスキーの途方もない作品」(小林秀雄)に見た「新しい人間」「新生活」とは具体的には何だったのだろうか。

 若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒の言葉を紹介しながら、次のように言う。・・『叡知の哲学』114頁

「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった。

「ここでひとつ諸君に秘密を教えてあげようか。

これは、もしかすると、最初から最後まで、ぜんぜん夢なんかではないかもしれないのだ! 

なぜなら、夢には決して出てくるはずのない、恐ろしいほどの真実がそこで生じたからである」(「おかしな人間の夢」太田正一訳)。

人はそれを幻だと嘲っても、自分には目の前にあるコップを触るような、それ以上の現実感がある。

ドストエフスキーの偉大さは、何ものかを「見た」点にあるのではない。

そのヴィジョンの指し示す世界を、実現しようと生涯を捧げたところにある。

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 井筒俊彦自身も・・彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた・・『ロシア的人間』で言及している。

 キリスト教的信仰で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景をドストエフスキーは描こうとした、とするのである。

 井筒によると、ドストエフスキーにとって、「通常の人間の思惟・感覚を超絶する永遠の秩序が、我々の現実的生活の次元に、どこから侵入して来て、現にそこで働いているという事実は、誰から教えてもらうまでもなく、彼にとってあまりにも自明なことであった」と云う。

 なぜなら、ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさにその「神の国」の「永遠の秩序」を垣間見ていたからだ。

 ・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。

 永遠性の直観、「永遠調和」の体験。それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。

それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。

人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。

これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。

『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より

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 この「永遠の調和」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、彼の「途方もない作品」に繰り返し描かれている。

 それは、「人間実存の根源的変貌、表層的『自我』から深層的『自我』への転換、もっとくだいて言えば、人間を根底からつくりかえること」(「人間存在の現代的状況と東洋哲学」)、つまり「新しい人間」として復活することであった。

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「ああ、もったいなし」の口癖が人生を変える・・

 詩人・山村暮鳥の詩集「雲」には、「もったいなし」をフレーズにした名作が沢山掲載されています。

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病休の詩
朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿体なし
そのひとつびとつよ

おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寝ながらにして
月をみるとは


おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんぼうだからこそ
こんないい月もみられる

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月からの「地球見」・・ああ、もったいなし 

 私たちも本当は「もったいなし」の出来事に取り囲まれているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれません。

 この「ああ、もったいなし」を口癖にすれば、

 「当たり前病」から脱却して

 私たちの人生はたちどころに光輝くものに一変するのではないでしょうか。 

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 「太陽さん、いつもありがとう

   ああ、もったいなし」

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人間革命を起こす「コトバの力」

 人類は環境問題や相次ぐテロの連鎖など、「自分自身の根本的な転換」に迫られていると云ってもよいだろう。

 この革命的な転換の鍵を握っているのが「コトバ」なのである。特に井筒俊彦や小林秀雄の言語哲学から学ぶところは多い。 

井筒俊彦の言語観を探る上で、前にも紹介した真言密教の僧侶たちを前に行った講演「言語哲学としての真言」は極めて重要だ。

 井筒によると、異次元のコトバの極限状態においては、「シニフィエ、つまり意味が零度に近く希薄化し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音の方が、異常な力、宇宙的に巨大な力となって現れてきます」という

 つまり、聖書の「初めに言葉ありき」「初めに音ありき」と置き換えることもできる。

 実は小林秀雄のライフワークともいえる「本居宣長」においても、言語の始原は最初に長息としての声、つまり歌であったとしている。ちなみにその一部を引用しておく。

「ただの詞」より、発生的には、「歌」が先きだという考え、声の調子が抑揚の整う事が先きだという考えだ。

彼のこの大胆な直観には注目すべきものがある。

ーー宣長に言わせれば、歌とは先ず何を措いても「かたち」なのだ。

歌は「文」(アヤ)とも「姿」とも呼ばれている瞭然たる表現性なのだ。・・小林秀雄「本居宣長」

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 井筒の講演に戻るとーー

「これが、真言密教のコトバ構造におけるア音の原初的形態であります。すなわち、この極限的境位では、大日如来のコトバはアという一点、つまりただひとつの絶対シニフィアンなのであります」

 そして・・大日如来のア声としての「コトバ」が起点として意識が生まれ、その目覚めた意識から存在が分節的に展開していくというのである。

 前回も触れたように、この大日如来の自己創発的な展開は、実はその子供たる私たちにも見られる。

自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります」。

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 大日如来自身の目覚めが「声」によるように、私たちも普段何気なく使っている自身の「声」を通して自分を、世界を認識しているのだ。

 例えば「私は教師です」と声に出して言えば、その声を真っ先に聞いているのは自分自身の心であり、そしてその心が教師であることを描き、認めるという認識作用が生まれる。

 そしてこの認める働きが現実に自分を教師らしく創造していくのである。

 簡単に云うと、声⇒心に描く⇒認めることにより具体的存在となる・・という一連の自己創発的な創造活動を私たちは無意識にしていることになる。

 とすれば、私たちが普段何を話し、思い描いているかが、運命や境遇を創っていることになる。

 まさに聖書の云う「言葉は神なりき」は、この意味において真実なのである。

 ちなみにこの声、つまり口密と身密と意密が、大日如来の身・口・意の三密と一つになったときに、私たちはこのままで「即身成仏」できるというのが空海の教えの神髄である。

 これを「三密相応」と呼ぶが、法然をはじめ、親鸞、一遍ら鎌倉時代の開祖たちは、三密の中でも口密、つまり「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることを最優先した。

 これも、「声」こそが意識と存在の原点であることを彼らが厳しい行を通して体感していたからではないだろうか。

 この「声の力」に関する研究は前にも触れた町田宗鳳さんの「法然・愚に還る喜び」に詳しく書かれているので、興味のある方は参照してみてください。

 ちなみに藤沢烈さんのブログから興味深い図を引用したい。

 私たちが空海の真言陀羅尼などをただひたすら唱えていると、イスラム神秘主義の「酔い心地」を通って、「自分が大日如来そのものであった」という「素の自分」に還ることができる。

 つまり、井筒俊彦の説いた「エゴからセルフ」への人間自身の根本的な転換こそが、これから全地球的規模で望まれる「パラダイムシフト」の序曲なのである。

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