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小林秀雄の鉄斎論・・自然と人間が応和する喜び

鑑賞という事は、一見行為を拒絶した事の様に考えられるが、実はそうではないので、鑑賞とは模倣という行為の意識化し純化したものなのである。

救世観音の美しさは、僕等の悟性という様な抽象的なものを救うのではない、僕等の心も身体も救うのだ。

僕等は、その美しさを観察するのではない、わがものとするのである。

そこに推参しようとする能力によって、つまり模倣という行いによって。

Kobayashigoho

      ゴッホの複製画の前で

 これは、「伝統」という小林秀雄のエッセーからの引用だが、小林秀雄にとって絵画や美術品などの「鑑賞」という行為がどのようなものであったか、よく解る文章である。

 彼のような徹底した「鑑賞」にあっては、自分と作品の境界はなくなり、観察するのではなく、まさに一体になって「わがものにする」ことに力点が置かれている。

 例えば、小林は富岡鉄斎を四日間ぶっ通しで、朝から晩まで250余の作品を見続けたというから尋常ではない、そこには何か魔的なものすら感じられる。彼の鉄斎論を見てみよう

 日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なしに、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対することは出来なかったのである。

 

彼はこの態度を率直に表現した。

 

讃嘆の長い歴史を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未踏の道を、彼は発見した様に思われる。

 

自然と人間とが応和する喜びである。

 

この思想は古い。

 

嘗て宋の優れた画人等の心で、この思想は既に成熟し切っていた。

鉄斎は、独特な手法で、これを再生させた。

彼は、生涯この喜びを追い、喜びは彼の欲するままに深まった様である。

悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、そようなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた。

「鉄斎Ⅱ」

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         仙縁奇遇図 

 

  鉄斎の喜びをわがものにした小林の批評は「鑑賞道」とでも呼びたい、厳しくも喜びにあふれた行から生まれてきたのであり、頭の中だけで巧んだものは一つもないのだ。

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