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「意識と存在の構造モデル」6・・大日如来の自己分節

 大日如来のア声としての「コトバ」が起点として意識が生まれ、その目覚めた意識から存在が分節的に展開していくという真言密教の言語哲学は、実に興味深いものがある。

 なぜなら、大日如来の自己創発的な展開=分節行為は、実はその子供たる私たちにも見られるからだ。まさに意識と存在が連関しているのである。もう一度、井筒俊彦の云うことに耳を傾けてみよう。

 自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。

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 大日如来自身の目覚めが声によるように、私たちも普段何気なく使っている自身の「声」を通して自分を、世界を認識しているのだ。

 例えば「私は教師です」と声に出して言えば、その声を真っ先に聞いているのは自分自身の心であり、そしてその心が教師であることを描き、認めるという認識作用が生まれる。そしてこの認める働きが現実に自分を教師らしく創造していくのである。

 簡単に云うと、声⇒心に描く⇒認めることにより具体的存在となる・・という一連の自己創発的な創造活動を私たちは無意識にしていることになる。

 とすれば、私たちが普段何を話し、思い描いているかが、運命や境遇を創っていることになる。

 まさに聖書の云う「言葉は神なりき」は、この意味において真実なのである。

 ちなみにこの声、つまり口密と身密と意密が、大日如来の身口意の三密と一つになったときに、私たちはこのままで「即身成仏」できるというのが空海の教えの神髄である。

 これを「三密相応」と呼ぶが、法然をはじめ、親鸞、一遍ら鎌倉時代の開祖たちは、三密の中でも口密、つまり「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることを最優先した。

 これも、「声」こそが意識と存在の原点であることを彼らが厳しい行を通して体感していたからではないだろうか。

 この「声の力」に関する研究は前にも触れた町田宗鳳さんの「法然・愚に還る喜び」に詳しく書かれているので、興味のある方は参照してみてください。

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     フランクフルトの空

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