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小林秀雄の古人論・・古人と本当に親しむ道

Kobayashishinjin

努めて古人を僕等に引き寄せて考えようとする、そういう類いの試みが、果たして僕等が古人と本当に親しむに至る道であろうか。

必要なのは恐らく逆な手段だ。

実朝という人が、まさしく七百年前に生きていた事を確かめる為に、僕等はどんなに沢山のものを捨ててかからねばならぬかを知る道を行くべきではないのだろうか。

小林秀雄「実朝」

 まずは空っぽになって「古人」に近付いてくのが、「古人と本当に親しむ道」である。

 歴史とは「大河」みたいなものであり、その悠々たる流れに竿をさして大物の魚を釣るには、まずは「大河の流れ」を知り、そしてその「魚の立場」に立ってひたすら考えねばならぬ。

 なぜなら、「歴史」は自然と同じであり、「無私の精神」で畏敬するところにその素顔を見せ始めるからである。

 その意味では、小林秀雄は手ぶらで「歴史の真実」に推参して「古人」と親しみ、その実相を掴み出してきた「名人」と言えるのではないか。

 

 小林秀雄が本居宣長の「古事記」という古典に対する態度に見ていたのも、まさにその古人との親しみ方であった。

「本居宣長」から幾つか引用してみよう。

《恐らく、彼(宣長)にとって、(『古事記』の神々の)物語に耳を傾けるとは、この不思議な話に説得されて行く事を期待して、緊張するという事だったに違いない。

無私と沈黙との領した註釈の仕事のうちで、伝説という見知らぬ生き物と出会い、何時の間にか、相手と親しく言葉を交わすような間柄になっていた、それだけの事だったのである。

その語るところは、上代の人々の、神に関する経験的事実である、と言ってもよい。

しかし、その事実性は、伝説という一つの完結した世界から、直かな照明を受けていた。

いや、この自力で生きている世界の現実性なり価値なりが、創り出しているものだった、と言った方がいいかも知れない。そういう事を、しかと納得した上でなければ、経験的事実などと言ってみたところで空言だろう。宣長は、それをよく知っていた。》

 

《宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ、大御国の学問の本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方ないであろう。

彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる資料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。

そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語のさま」であった。

 

耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。》

Hideo


 最後に「古人」と親しむための一首・・。

山吹の花を折らせて人のもとにつかはすとて

散りのこる岸の山吹春ふかみこの一枝をあはれといはなむ

・・源実朝

Sakura

     熱海の海と桜花・・

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