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小林秀雄の哲学1・・哲学のシステムは一つで足りる

 高橋昌一郎さんの「小林秀雄の哲学」は、小林秀雄の「哲学者」としての側面に迫っている。意見の分かれるところもあるが、興味深いエピソードも目白押しで入門書として読んでもいい好著である。

 高橋さんに触発されて「小林秀雄の哲学」の一端に迫ってみよう、と思う。

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 特に小林の「私の人生論」は小林の哲学に対する姿勢、考え方がそのまま現れている古典的作品である。 

 「私の人生論」の中で、小林は次のように哲学の問題点について指摘している。

・・われわれの合理的知識の発達は、簡単に言えば、曖昧な知覚を、どういう具合に巧みに正確な概念で置き代えるかという道を進む。

だが、どんなに抽象的な概念でも、具体的な知覚を通じて、その内容を得ねばならぬ。

ところで、哲学者にとってことに厄介な事には、実証科学が、疑いもなく万物に共通な性質、即ち量というものを引受けて了った後には、質の世界しか残っておらぬという事です。

部分が決して全体を表す事の出来ぬ、あらゆるものがあらゆるものに対して異質である、そういう世界を前にしてあれこれの知覚を拾い上げたり、捨てたり、分析したり、組合せたり、要するに知覚に関する選択や工夫や仕上げ、言わば知覚の概念への変換式には、出たらめとは言えぬとしても疑いの余地あるものがどうしても這入って来ざるを得ない。

これが発明した人の数だけあり、而も哲学というものの定義上、自らの合理性を主張して、互に争わねばならぬという根本の理由だと考えられないか。

 井筒俊彦が指摘したように、私たちが「文明の衝突」からもう一段階高い「ダイナミックな統合」に至るためには、この自分自身の意識レベルをより包括的で創造的なものに転換していくことが必要であるが、小林秀雄がかつてベルクソンの哲学をベースにして提起した「知覚の拡大」の理論には、参考になるところがあるように思う。

 つまり、知覚から概念に行く通常の哲学の方法ではなく、「全く違ったやり方」を試みてはどうか・・というのである。

 知覚の欠陥を概念によって充たさねばならない、という考えをもしさっぱりと思い切るならば、「知覚から概念に飛び上がろうとする同じ意志の力が、逆に知覚の中にどこまでも入り込み、凡そ知覚するものは何一つ捨てまい、いや進んでこれを出来るだけ拡大してみようという道がありはしないか」

若しそういう道から哲学が出来上がるなら、恐らく哲学のシステムは一つで足りるであろう。

何故ならそういう哲学は、感性や意識に与えられたものは何一つ捨てない、他の哲学が、これに反対しようとしても、拾う材料が残されていないからです。

概念で武装して相争ういろいろな哲学のシステムは、そうなれば、皆協力して知覚の拡大という共通の仕事に向かうでしょう。

 人は「知覚の拡大など不可能である、眼には見えるものしか見えない」と反論するかもしれないが、実際にこの知覚を拡大する道をやってぬけた人たちがいる。

 それが優れた芸術家たちであり、「彼等の努力によって、私達が享受する美的経験のうちには、重要な哲学的直覚がある」というのである。

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 「哲学のシステムは一つで足りる」

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