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2013年4月22日 (月)

井筒俊彦論33・・弁栄聖者の「万有生起論」

 「イスラーム哲学の原像」には「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図が描かれている。

 すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置かれ、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

 そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

 例えば弁栄(べんねい)聖者といえば、徹底した念仏によって如来とは「一大観念」であり、「一大心霊」との悟りに達した近代日本の生んだ偉大な宗教家・哲人である。

 そしてその心霊とは「光明」そのものであるとして、「光明会」を創始したのであるが、あの数学者の岡潔も私淑しておられたのであり、その悟りに基づく広大な観念哲学は、若松英輔さんが言うようにイブン・アラビーの世界を彷彿とさせるものがある。

 若松さんの引用している弁栄の言葉とその説明を紹介してみよう。

宇宙唯一の法身の手によりて成生したる万有なれば大は宇宙全体より太陽も地球も所有万物もいかに微細なる一切の個体は一大法身の分身なる個々なれば、個々は小法身なり。

・・中略・・しからば有る人が個法身の万物いかに微細なるも神を宿し能わざるほどの微細なるものなしと。(「万有生起論」)

・・イブン・アラビーが超越者を「存在」と呼ぶように、弁栄は「みおや」「法身」あるいは「神」と書く。

「神」の一語すら、一者の自己顕現・自己限定・自己分節的表現でしかないことを示す彼の強い意図がある。

『井筒俊彦--叡知の哲学』第10章「叡知の哲学」428~429頁

 弁栄は「一大法身」を「一大心霊」とも呼び、この心霊の心に浮かび上がってきたところの観念が宇宙万物として造化・展開していくのである。

 しかも「小法身」たる私たちも「念仏三昧」により、「一大法身」たる「ミオヤ」と一つになることができるという。

 弁栄聖者は24歳の時に筑波山に二ヵ月こもって日夜念仏をとなえる厳しい修行をしている。

 米麦そば粉だけで飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること毎日徹底的に実践遂に「一心法界三昧」の境地に出たというのである。

 弁栄聖者によると、「一心法界三昧」とは、この宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだという。

 我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるが、「念仏三昧」の境地にはいるとき、自己と環境、自分と他人、さらには時間と空間の制限などあらゆる二元性を超えた世界に出ることができるという。

 この「念仏三昧」によって、自己の心が二元性を超えた「一大法身」の世界と一つになったのが「一心法界三昧」だというのである。

 まるで井筒俊彦の語るイブン・アラビーの「存在一性論」を聴いているようではないか。

05

  一大法身の説法する世界・・

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