井筒俊彦論27・・「読む」ことの天才
井筒俊彦にとって「読む」とは「知的理解を超える営み」(若松英輔さん)であったように、小林秀雄にとっても「読む」という行為は単なる知識を収集するためではなく、「批評道」に推参するための大切な「行」であったようだ。
たとえば・・「本居宣長」という近世の巨人を「読む」にはどうしたらいいのか。
多くの宣長を研究する近代・現代の学者たちは、文献学者としての宣長に近代の実証的文献学の先駆けを見て評価しつつも、なぜあのような道の学問、つまりは幼稚な古代の信仰の世界に入ってしまったのか・・という二律背反の宣長像を描いてきた。
が、小林秀雄にしてみれば、それらの宣長像はあくまで近代と云う価値観に毒された「あまりに近代的なもの」に見えた。
とすれば、どのような「読み方」をすれば「宣長の実相」を描くことができるのか。小林は次のように語る。
「当今の宣長研究は、皆、近代科学の実証主義に強く影響された観点に、それと意識しないで立って行われてきた。
言わば、形而上なものに対する反感から出発していたと言っていい。
これをどうにかしなければならぬ事には、早くから気付いていた。
方法はたった一つしかなかった。
出来るだけ、この人間の内部に入りこみ、入りこんだら外に出ない事なんだ。
この学者の発想の中から、発想に添ってその物の言い方を綿密に辿り直してみる事、それをやってみたのです」・・
<その物の言い方を綿密に辿り直してみる事> は、何よりも大思想家の文体を味わうことが先決だという意味である。
小林は『本居宣長補記』ではそのライフワークたる『本居宣長』を振り返りながら次の様に言う。
「今度、『本居宣長』の仕事で、私がまともに取り組まなければならなかったは、やはり『哲学者の文章』というもの、論理の進行を追うより、文章の曲折を味わうのが先決ではあるまいかという問題であった」
普通、我々は思想というものを文体と関係のないある内容と考えがちだが、小林は思想と文体は切り離せない一体のものであり、むしろ思想の精髄はその内容よりも文体そのものに息づいている、と見ているのである。
そしてその思想の構造を分析し、論理を追うことはかえって思想の中身を取り逃がしてしまう。
そうではなく、その思想のかたちを損なうことなく、救いあげるためには、「論理の進行を追うより、文章の曲折を味わう」(『本居宣長補記』)というまさに当たり前の「読み方」こそが必要だったのだ。
つまり、小林は、思想の体系や構造を取り出すよりも、大思想家の文章をただひたすら熟読し味わう、つまり「読む」ことこの方が、いかに大切であるか、身をもって示したとも言える。
この意味では、誤解を恐れずに言えば、小林秀雄も井筒俊彦も、単なる実証主義では満足できない「野生の理性」(クロード・レヴィ=ストロース)を持っていたのであり、彼等は古の哲人や神秘家たちの言葉が自分のものとして甦ってくるまでただひたすら「読む」ことに徹した。
「読む」という営みは、実に深く、そして如何にエキサィティングであるかを、二人の天才は教えてくれているではないか。
ひたすら「読む」ことに徹した小林秀雄
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