井筒俊彦論26・・「意識と本質」について
井筒俊彦が「東洋哲学の共時的構造化」を図るべく執筆した「意識と本質」には、東西の哲人や神秘家、詩人たちが一堂に会しており、それこそ井筒という「哲学的巨人」のフィールドにおいて、彼等は時間を超えて共鳴し、まるで「対話」をしているようである。
そう、井筒俊彦や小林秀雄といった優れた思想家・批評家にあっては、過去の偉大な哲人・詩人たちの思想や言葉を現代に甦らせて、まるで彼らと「対話」しているような「知の離れ業」を易々とやってぬけるのである。
特に若松英輔さんが注目しているのが、「意識と本質」が本格的に展開し始めたとき、井筒がおもむろに本居宣長を論じ始めたことである。
「古事記伝」を書く宣長の態度は、「意識と本質」を想起させる。
そこでは学問的実証性と共時性が重層的かつ立体的に併存している。
書物であれ過去に生きた人物であれ、呼びかければ応える、そう二人は信じていたのではないか。
彼らにとって「読む」とは知的理解を超える営みだった。
だから、当然、コトバは透明でなければならない。
書き手が並べた透明なコトバの連鎖を通して、その向う側に、書き手の心に始めから存立していた意味--つまり言語以前のリアリティ--を理解する、それが「読む」ということだ。(井筒俊彦「読む」と「書く」)同質の実存的経験がなければ「古事記伝」は完成しなかっただろうし、宣長はそこに35年もの歳月を捧げることはできなかっただろう。
宣長にとって稗田阿礼は先人だが、「過去」の人ではない。
宣長が古事記を一個の「生き物」だと思っていたように、井筒俊彦は「意識と本質」に登場する哲人たちを「今」に臨在する者として論じ、読者をその現場に招こうとしているのである。
『井筒俊彦--叡知の哲学』359~360頁
この本居宣長と井筒俊彦の共通項としての「読む」ということには、注目すべきものがある。
二人とも恐るべき碩学であったが、彼等は単なる「学問的実証性」の段階には止まらなかった。
彼等はむしろそれを超えて、「言語以前のリアリティ」を“読み解こう”としたのである。
宣長の場合は、古事記を通して古人の信仰に基づいた生活ぶりまで“読みこんだ”のをはじめ、井筒の場合も東西の哲人達の「哲学的思惟の根源に伏在する観照的体験」を“読み解こう”とするのである。
このような超越的な読み方をすることによって、古人や東西の哲人たちが「今」に臨在する者として甦るのである。
つまり、時代を超えた「対話」が成立するには、「読む」という知的理解を超える営みが必要だったのである。
ちなみにこの「読む」という営みは、「想像力」と読み換えても差し支えはないと思う。
想像力とは、知性、感性、直感の伴った最も充実した心の働きである。・・小林秀雄・・「本居宣長」の講演にて
フランクフルトにて「読む」ことを考える
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