井筒俊彦論23・・「東洋哲学の共時的構造化」
小林秀雄が常々、日本の哲学者の文体に不満を持っていたことは有名だ。
西田哲学に至ってはその内容は認めつつも、西田の文章について、「日本語で書かれて居らず、勿論外国語でも書かれていないという奇怪なシステムを造り上げて了った」などと手厳しい批評をしている。
その点、井筒俊彦は、小林秀雄と同じような優れた批評家でもあり、自身の体験に裏打ちされた血の通った文体を綴った、つまりは「詩人哲学者」(若松さん)でもあったのである。
その井筒が1979年の1月の末、イラン革命の前夜のこと、テヘラン空港から乗った救出機の座席で「これからは東洋哲学をめぐる自分の思想を、日本語で展開し、日本語で表現してみよう、という決心とも希望ともつかぬ憶い」を抱いたことは注目に値する。
若松英輔さんによると、「30を超える言語を自由にした井筒俊彦は、その一方で、母国語が果す決定的な役割を深く認識していた」という。
「現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究さえすれば、もうそれだけですでに東西思想の出逢いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交錯、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまう」、だから、日本人として日本語で表現すれば、そこに自ずから「東洋哲学の共時的構造化」し実現される、と井筒は「意識と本質」執筆の動機を記している。
『井筒俊彦--叡知の哲学』(352頁)
井筒の後半生の一大テーマとも呼ぶべき、「東洋哲学の共時的構造化」は、英語などではなく、日本語で成し遂げる必要があったのだ。
前にも触れたように、井筒の文体は詩人かつ批評家のそれであり、彼にとっては「書く」ことそのものが、存在の根源に立ち還ってコトバを紡ぎだす一種の神秘的な体験ではなかったか。
おそらく、井筒俊彦という「詩人哲学者」をイラン革命という事件を通して、日本に奪還したことには日本の哲学史上、大きな意味があるのではないか。
なぜなら、その後、井筒という哲学的巨人を通して、東西の哲学が対話し、「東洋哲学の共時的構造化」を計るという地球的な哲学のアゴラ(広場)が創設されることになるからである。
ギリシャの昔、プラトンらが集ったとされる哲学のアゴラは、井筒の手によって東西の文明の狭間にある、我が日本に甦ることになったのだ。
この日本という哲学のアゴラで何が創出するか。
おそらく井筒自身もワクワクする気持ちでいたに違いない。
これからどこまでできるがわからないが、かつて誰もやったことのなかった壮大な哲学の実験を日本でやってみよう・・そんなことを彼は機内で考えていたのかもしれないのだ。
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