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2013年1月 9日 (水)

井筒俊彦論21・・「言語哲学としての真言」

 井筒俊彦の言語観を探る上で、前にも紹介した真言密教の僧侶たちを前に行った講演「言語哲学としての真言」は極めて重要だ。

 井筒によると、異次元のコトバの極限状態においては、「シニフィエ、つまり意味が零度に近く希薄化し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音の方が、異常な力、宇宙的に巨大な力となって現れてきます」という。

 つまり、聖書の「初めに言葉ありき」「初めに音ありき」と置き換えることもできる。

 実は小林秀雄のライフワークともいえる「本居宣長」においても、言語の始原は最初に長息としての声、つまり歌であったとしている。ちなみにその一部を引用しておく。

「ただの詞」より、発生的には、「歌」が先きだという考え、声の調子が抑揚の整う事が先きだという考えだ。彼のこの大胆な直観には注目すべきものがある。ーー宣長に言わせれば、歌とは先ず何を措いても「かたち」なのだ。歌は「文」(アヤ)とも「姿」とも呼ばれている瞭然たる表現性なのだ。・・小林秀雄「本居宣長」

 井筒の講演に戻るとーー

「これが、真言密教のコトバ構造におけるア音の原初的形態であります。すなわち、この極限的境位では、大日如来のコトバはアという一点、つまりただひとつの絶対シニフィアンなのであります」

 そして・・大日如来のア声としての「コトバ」が起点として意識が生まれ、その目覚めた意識から存在が分節的に展開していくというのである。

 前回も触れたように、この大日如来の自己創発的な展開は、実はその子供たる私たちにも見られる。

自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります」。

 大日如来自身の目覚めが「声」によるように、私たちも普段何気なく使っている自身の「声」を通して自分を、世界を認識しているのだ。

 例えば「私は教師です」と声に出して言えば、その声を真っ先に聞いているのは自分自身の心であり、そしてその心が教師であることを描き、認めるという認識作用が生まれる。

 そしてこの認める働きが現実に自分を教師らしく創造していくのである。

 簡単に云うと、声⇒心に描く⇒認めることにより具体的存在となる・・という一連の自己創発的な創造活動を私たちは無意識にしていることになる。

 とすれば、私たちが普段何を話し、思い描いているかが、運命や境遇を創っていることになる。

 まさに聖書の云う「言葉は神なりき」は、この意味において真実なのである。

 ちなみにこの声、つまり口密と身密と意密が、大日如来の身・口・意の三密と一つになったときに、私たちはこのままで「即身成仏」できるというのが空海の教えの神髄である。

 これを「三密相応」と呼ぶが、法然をはじめ、親鸞、一遍ら鎌倉時代の開祖たちは、三密の中でも口密、つまり「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることを最優先した。

 これも、「声」こそが意識と存在の原点であることを彼らが厳しい行を通して体感していたからではないだろうか。

 この「声の力」に関する研究は前にも触れた町田宗鳳さんの「法然・愚に還る喜び」に詳しく書かれているので、興味のある方は参照してみてください。

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 熱海の海で「声の力」について考える・・

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