井筒俊彦論17・・聖ベルナールの愛の火
ベルクソンの言う「完全な神秘主義」への到達に言及する前に、井筒俊彦の「聖ベルナール論」にもう少し触れてみたい。
引用は『読むと書く』の「神秘主義のエロス的形態--聖ベルナール論」からである。
・・「慈悲の心を抱くということがたとえ罪であったとしても、私はどんなにしたところで到底慈悲の心を抱かずには居られないでしょう」と断言するベルナールは確かに根源的に慈愛の人であり、「愛」の一語こそ彼の人格の核心を代表するにもっとも適切な言葉であるにしても、その愛はただ神にのみ源を有し、ただ神にのみ焦れ行く愛であることを我々は忘れてはならない。
・・聖ベルナールは凡そこのような激しい熱火を胸に抱いた人であった。
・・「考えて見るがよい。広大無辺なるものが我等を愛しているのだ。
『永遠』が我等を愛しているのだ。
量り知れぬ『愛』が我等を愛しているのだ。
神が我等を愛しているのだ。
その偉大なること限りなく、その叡智は辺涯なく、その浄安はあらゆる感情を超越する者が!
それなのに我々が、それに応える我々が、自分の愛の量を計ったりしてよいものか。
嗚呼、私はあなたを愛しましょう、主よ、わが力よ、わが頼みの綱よ、わが解放者よ、言葉の限りを尽くして崇め愛すべきものよ。
我が神よ、あなたの与えたまう限り、私の力のあるかぎり、私はあなたを愛します。
もとより、その愛はあなたにふさわしい程には決してなれないにしても、私は力のあらんかぎりをしぼって愛します」
・・ベルナールの人間否定の更に一番奥には、明るい人間肯定がひそんでいる。
そして、此の人間否定から出発して最後の偉大な人間肯定に至る途こそベルナール的神秘主義の道程なのである。
この神秘主義が謂わばパスカル的意味に於ける人間実存の悲惨から出発して、遂に窮極の目的地に到達するまでの過程を、私は次章に於いて思想的見地から辿って見ようと思う。
この井筒俊彦の「ベルナール論」を読んでいると、まるで日本の生んだ法然、親鸞などの浄土門の宗祖の言葉を聞いているようでもある。
そう、井筒の言う「意識と存在の構造モデル」であるところの三角形の山を登る情熱には東西の別はないのである。
ただベルナールの「永遠」「神」・・が親鸞たちにあっては「阿弥陀仏」という名称に変わっているのに過ぎないのではないか。
ちなみに、前にもふれたようにベルクソンは井筒と同じく、ベルナールを源にした16世紀のキリスト教の神秘家たちに「完全な神秘主義」を見いだしたが、彼がもし東洋に生まれていたならば、仏教やイスラム教などの偉大な神秘家たちに深い関心を寄せることは想像にかたくない。
さらに日本の神秘主義の歴史を知っていたならば、中世にきら星のごとく出現した偉大なブッティストたち(空海、最澄、道元、法然、親鸞、一遍など)に「完全な神秘主義」を発見していたかもしれない。
それはともかく、ベルクソンは、大いなる創造力の流れと一つになることこそが神秘主義本来の性格であり、完全な神秘主義は「行為であり、創造であり、愛でなくてはなるまい」と説くのである。
「完全な神秘主義」への道程も、この「大いなる創造力の流れ」と一つになることによって到達するのである。
この詳しい道程は次回、紹介することにする。
ハイデルベルクで山に登る・・
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