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2012年11月 1日 (木)

井筒俊彦論9・・永遠のロシア

井筒俊彦の中にある「ロシア的なるもの」。

それは名著『ロシア的人間』の第一章「永遠のロシア」に明らかである。

・・ロシア人が生息する精神的風土は極限であり精神の限界地帯である。

彼は常に極限を想い、「遥かなる彼方」を相望する。中庸の徳は彼にとっては徳ではない。

だから彼は絶え間なく、一つの極端から他の極端へと傍若無人に身を翻して脱出する。

生温かい「中庸」に彼は長い間我慢していられない。

しかし、中庸の否定は、すなわち文化の否定であり、自然的カオスの肯定でなくて何だろう。

それ故に、ロシアのインテリゲンツィアは、西欧文化を悲劇的にしか受容できなかった。

西欧文化のロシアにおける悲劇性をプーシキンは預言者のような炯眼をもって洞察し、その害悪をあばき出して見せた。ピョートル大帝の偉業は、同時にまた19世紀の悲劇の始まりでもあった。・・

・・だからロシア人は、ピョートル大帝の新国家建設このかた二百年にわたって西欧文化を狂気のように吸収して行きながらも、文化というものに対して一種の執拗な猜疑心、反発心、いや、時としては止みがたい憎悪すら常に示し続けたのではなかったろうか。

プーシキンに始まりトルストイに至って一つの絶頂に達するロシア文学の主流の一つが、その思想的テーマとして、人間における原初的自然性の探究というものを立てているのも決して偶然ではない。

西欧文化を吸収し、文化的精神に同化され、ドストエフスキー的に言えば「ヨーロッパ化されて自己の根を喪失してしまった」--19世紀ロシアのインテリゲンツィアが再び自己の根源にたち還ろうとうする懸命の努力で、それはあった。・・

 若松さんも言うように井筒俊彦が論じたのは、現象としての「ロシア」ではなく、時代を貫く「永遠のロシア」であった。・・『叡知の哲学』100頁

 私自身もベルクソンとともにドストエフスキーなどの19世紀ロシアの作家に強く惹かれ続けるのは、この「永遠のロシア的なるもの」故なのだ。

 井筒俊彦が喝破するように、彼らには「中間地帯」なく、「原初的なもの」を求めて極端から極端に走る「悲劇性」がある。

 彼らには残念ながら、西欧のインテリや哲学者にあった安息できる「中間地帯」がなかった。ヨーロッパの文化を受容しようにも、小林秀雄が言ったように彼らの前にはナロードという貧しき民衆しかいなかった。そして彼らが偉かったのはその民衆と西欧の空隙地帯に自ら身を横たえて殉教者になろうとしたことであった。

 当然のことながら、彼らは「自己の根」を求めて過激になり、そして自己を限りなく超越しようと試みることになる。

 発想法で云えば、彼等は「ゼロか100か」であり、マンガ「巨人の星」の星一徹親子のように妥協による勝利はありえないのだ。

 そして他ならぬ井筒俊彦の中にも、「永遠のロシア的なるもの」・・激しくも暗い「魂の闇夜」があったことを『ロシア的人間』は教えてくれているのだ・・。

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