井筒俊彦論14・・ムイシュキンの至高体験
『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活(井筒俊彦)の体験は、アブラハム・マズローの「至高体験」と呼んでもいいし、ガブリエル・マルセルの追求した「プレザンス」(現存)の体験と云ってもよいだろう。
この至高の体験は、一種の忘我の体験であり、「超自然」(越知保夫)なるものと一つになる意識の拡大でもあった。
それは道元の「身心脱落」という悟りにも連なる体験であり、大自然を前にして芸術家たちの持つ「無私の精神」(小林秀雄)にもつながる切実な体験ではなかったか。
『白痴』の主人公のムイシュキン公爵は、癲癇によるこの「至高体験」について、次のように話す。
「病気だからといってどこが悪いんだ?
この昂奮がアブノーマルな緊張であろうと何もかまいはしない。
もしそれの結果そのもの、つまりこの昂奮の一瞬が、健康な状態にもどってから憶い出して細かく点検しても、なおかつ至高の調和、美、であって、しかも今まで聞いたこともないほどの豊かさと正しさと安らぎと、そして祈りの翼に乗って至高の生の総和に還流することができたという陶酔とを与えてくれるものならば・・」
また、ムイシュキン侯爵はスイスの田舎で療養したころのことを回顧しながら、次のような「祈りの翼」に乗った体験をアグラーヤなどの若い娘にするのである。
「私のいた村には滝が一つありました。
あまり大きなものではないんですが、高い山の上から白いしぶきをあげて騒々しく、細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちているのです。ずいぶん高いところから落ちているんですが、妙にそれが低く見えました。
家から半キロメートルもあるのに、それが50歩くらいしかないような気がするんです。
私は毎晩その滝の音を聞くのが好きでしたが、そういうときにはよく激しい不安に襲われたものです。
それからまた、ときにはよく真っ昼間にどこかの山にのぼって、大きな樹脂だらけの松に取りまかれて、たった一人で山の中に立っていますと、やはりそんな不安が襲ってくるんですよ。
はるか頂上の岩の上には中世紀の古いお城の廃墟があって、眼下には私の住んでいる村が、かすかにながめられます。
太陽はさんさんと明るく輝いて、空は青く、しいんとこわいような静けさなんです。
そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持になったのは。
もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空とが接している向こうがわまで行けたら、そこではありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力づよい、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。
それから私はしょっちゅうナポリのような大きな町を空想していました。
そこには宮殿が立ちならんでいて、ざわめきとどよめきと生活があるのです・・・・いやっまったくいろんなことを空想したものですよ! それからあとになって、私は牢獄の中でも偉大な生活を発見できると思うようになりましたよ」
この公爵のコメントは、まるで一編のメルヘンのようでもあり、美しいポエムのようでもあるが、新しい生活が到来する予感にあふれている。
おそらく井筒俊彦が追求した「復活の秘蹟的行為」(『ロシア的人間』)も、この侯爵のような忘我の体験であり、新しい世界の発見でもあったのである。
ハイデルベルクで「偉大な生活」を発見
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