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2012年11月14日 (水)

井筒俊彦論12・・「新しい人間」の誕生

 ドストエフスキーの途方もない作品」(小林秀雄)に繰り返し描かれている「新しい人間」(井筒俊彦)の誕生・・。

 あの名作『罪と罰』も単なる犯罪を犯した青年ラスコーリニコフの「懺悔の物語」ではない。

 「如何に生きるべきか」という激しい問いかけに憑りつかれた青年が、「旧い人間」から「新しい人間」へと生まれ変わっていく「魂の更生の物語」なのである。

 私は彼がシベリアの地でソーニャとともに丸太に腰掛け、大平原を見渡すシーンが大好きだ。

 現象的には犯罪という罪を罰せられて、シベリアに流された彼だが、その魂の奥底では復活の喜びがあふれ、二人による「新しい物語」が始まることを予感させる。

 まさに「旧い人」「新しい人間」に生まれ変わろうとしているのである。

 それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝6時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。

そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。

・・ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺め始めた。

高い岸からは広々とした周囲の眺望がひらけた。遠い向うの岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。

そこには日光の漲った目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。

そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。

そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。

ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、眼も離さずにじっとみつめていた。

彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移って行った。彼はなんにも考えなかったが、何ともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった。

・・『罪と罰』エピローグ

 
 
そこに突然、ソーニャが現れ、彼と並んで丸太に腰掛ける。彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめる。

 彼らは二人とも蒼白くやせていたが、「この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向う近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった」とドストエフスキーは書いている。

 おそらくドストエフスキーのメインテーマとも言うべき、「新しい人間」の誕生という「人間実存の根源的変貌」について、最も深く考察したのは小林秀雄と井筒俊彦ではなかったか。

 ちなみに若松英輔さんも「霊界を生きた作家とドストエフスキーを認識する点で、小林秀雄と井筒俊彦は深く交差する」・・『叡知の哲学』113頁と指摘しておられる。

Sis
「白痴」のムイシュキンは、幼時から重度の癲
癇でスイスで療養していたという。
・・レマン湖にて

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