井筒俊彦論12・・「新しい人間」の誕生
ドストエフスキーの「途方もない作品」(小林秀雄)に繰り返し描かれている「新しい人間」(井筒俊彦)の誕生・・。
あの名作『罪と罰』も単なる犯罪を犯した青年ラスコーリニコフの「懺悔の物語」ではない。
「如何に生きるべきか」という激しい問いかけに憑りつかれた青年が、「旧い人間」から「新しい人間」へと生まれ変わっていく「魂の更生の物語」なのである。
私は彼がシベリアの地でソーニャとともに丸太に腰掛け、大平原を見渡すシーンが大好きだ。
現象的には犯罪という罪を罰せられて、シベリアに流された彼だが、その魂の奥底では復活の喜びがあふれ、二人による「新しい物語」が始まることを予感させる。
まさに「旧い人」が「新しい人間」に生まれ変わろうとしているのである。
それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝6時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。
そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。
・・ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺め始めた。
高い岸からは広々とした周囲の眺望がひらけた。遠い向うの岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。
そこには日光の漲った目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。
そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。
そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。
ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、眼も離さずにじっとみつめていた。
彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移って行った。彼はなんにも考えなかったが、何ともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった。
・・『罪と罰』エピローグ
そこに突然、ソーニャが現れ、彼と並んで丸太に腰掛ける。彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめる。
彼らは二人とも蒼白くやせていたが、「この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向う近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった」とドストエフスキーは書いている。
おそらくドストエフスキーのメインテーマとも言うべき、「新しい人間」の誕生という「人間実存の根源的変貌」について、最も深く考察したのは小林秀雄と井筒俊彦ではなかったか。
ちなみに若松英輔さんも「霊界を生きた作家とドストエフスキーを認識する点で、小林秀雄と井筒俊彦は深く交差する」・・『叡知の哲学』113頁と指摘しておられる。
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