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2012年11月 3日 (土)

井筒俊彦論10・・ロシアのキリスト

 19世紀ロシアの悲劇的な精神史を描いたものとして、井筒俊彦著『ロシア的人間』は、小林秀雄のロシアに関する批評と双璧をなすものである。

 井筒俊彦は第二章「ロシアの十字架」の冒頭で、ドストエフスキーの『白痴』に登場するロゴージンの陰惨な家の一室にかかっている一種異様なキリストの磔刑図に言及している。

 そこに絵が描かれていたのはたった今、十字架から降ろされたばかりのキリストの姿であり、その顔付きの何と惨めなことか。その部屋を訪れたムイシュキン公爵もそれをちらっと眺めて「何か胸を衝かれたらしい様子だった」という。

 しかし実際はこの見るも哀れな十字架上の死こそまさに「ロシアの基督(キリスト)」であり、かの凶熱的なロシア的信仰の発する真の源泉なのである。

・・・ロシアの十字架において、我々は、人々と共に卑しめられ辱められた一個の人間を見る。

それは「虐げられた人」としての人間基督だ。

「虐げられた人々」の自覚に生きるロシア民族と共に虐げられ、共に苦しみ共に悩む基督の姿だ。

そこには民族と基督の間に、他に類のない人間的共感がある。その共感が愛となり、愛はやがて熱烈な信仰になる。

だからここでは、信仰は文字通り愛から始まる。

人間基督に対する熱狂的な愛が、そのまま復活の基督に対する熱狂的な信仰に変成する。

・・ロシア的な信仰には、何かものすごい衝迫に憑かれた人々の昂奮、乱舞の姿があり、ほとんど放恣という形容詞が当てはまるような無我夢中の眩暈がある。

それはバッカス的な散乱であって静かな自己集中ではない。

基督を最高絶対の「真理」として、生きた真理として把握した西欧の中世カトリック的世界から、このロシア的信仰の陶酔の世界のいかに遠く距っていることか。

「もし誰かが、基督は真理の外にあるとということを私に証明して見せたら、そしてもし本当に真理が基督を締出してしまうなら、私は真理より基督と共に留まるだろう」とドストエフスキーは断言した。

ロシア人における愛・即・信仰とはおよそこういう性質である。

ドストエフスキーの信仰告白として世に有名なこの言葉は、決して彼一人のものではなく、基督に対するロシア民族そのものの言葉なのである。

 

   この井筒俊彦の文章は、まるで小林秀雄『ドストエフスキーの生活』を思わせる名文である。

 小林が描いたドストエフスキーも真理よりもキリストを熱烈に愛し、ナロードこと民衆を熱烈に愛し、その愛する者のためになら、自己を捧げてもかまわないとする「熱狂的な信仰」をもった天才として描かれているのだ。

 それにしても、ここで井筒の云うように「ロシア的な信仰」には何かものすごい衝迫に憑かれた人々の昂奮、乱舞の姿が確かにある。

 それこそ、ドストエフスキーの描いた小説上の人物のように、大悪党までがその大きな罪がゆえに、かえって熱烈に救いを求め、自他共に救われようとする。 

 例えば『カラマーゾフの兄弟』では登場する主な人物、父フョードルをはじめドミートリイイワン、アリョーシャの三兄弟が“ある一点”に向かって動いているように私には見える。 

 フョードルという一見、好色でどうしようもない卑劣漢の父親も実は“ある一点”に向かってひた走っている。三人の兄弟もそれぞれに十分に個性的であるが、“ある一点”に向かって意識を向けているという点では、この三人の魂は大変似ているとも言えるのだ。

 このドストエフスキーのバッカス的な混沌とした世界では、通常の倫理的な価値観はことごとく剥落し、生命の躍動にあふれた驚くべきドラマが展開していくのだ。

 ここで云う“ある一点”とは、ドストエフスキーが様々な作品で描いてきた「新しい人間」(井筒俊彦)のことであり、その「新しい人間」送る新生活(楽園)のことを云う。

誰もが一見、苦しみ、もがきながらもその一点、つまり「熱狂的な信仰」による魂の復活に向けて全てをかけて行動しているように思えるのだ。

 例えばドミートリイは父殺しのぬれぎぬを負わされ、獄中で弟のアリョーシャにこう告白する。

「いよいよお前に胸の底までぶちまけてしまう最後の時が来た。

実は、俺はこの二ヶ月というもの、自分のうちに新しい人間を感じて来た。つまり俺の内面に一人の新しい人が甦ったんだ」

 新しい人間が誕生し、確かに新生活が始まることを誰もが熱望しているのだ。

 この「熱狂的信仰」こそがドストエフスキーの宇宙を形成する原動力になっているのである。

☆ドストエフスキーはイタリアのフィレンツエ=写真=で『白痴』を執筆したという。

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履歴書さん、またいつでも起こし下さい。ありがとうございます。

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