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2012年10月25日 (木)

井筒俊彦論8・・ロシア的なるもの

 哲学的巨人、「井筒俊彦」を理解する上で避けて通れないのは、彼の中にある「ロシア的なるもの」である。

 意外に知られていないことであるが、彼はイスラムの碩学であるとともにロシア文学にも通暁した「文学者」でもあったのだ。

 私は彼の『ロシア的人間』を読んだときの衝撃を忘れられない。

 井筒俊彦の筆にかかるとロシアのドストエフスキーをはじめとする野性的な天才たちの魂の秘密が露わになり、彼らの群像が生き生きと蘇ってくる。

 若松さんも新著『叡知の哲学』の第三章「ロシア、夜の霊性」の中で詳解してくれている。

「哲学者である以前に神秘家であった」という『神秘哲学』の言葉は「哲学者」を「文学者」とすれば、そのまま『ロシア的人間』にも当てはまる。

彼がいう神秘家とは、静謐に佇む厭世家ではない。深く世界に突き刺さるように関与し、万民の救済を試み、垂直線のような境涯を生きる行為者である。

彼らは「神秘主義者」のように、世界の謎を解き明かすことに関心を示さない。彼らにとって謎とは解析の対象ではなく、生き抜く現実に他ならない。

ツアーリズムと正教会の奇妙な融和が生んだ、圧政と蹂躙に苦しむロシア人民にとって、文学は芸術であり、いかに生きるべきかを告げる宣託だった。文学と宗教を同一視するのではない。

しかし、教会にとって、第一義の関心が信徒たちの救済ではなく、教会の覇権に変わったとき、天の言葉を預けられるのが、宗教者でなくなったとしても訝る必要はない。

こうした背景で、チェルヌイシェフスキーのような社会思想家による小説「何をなすべきか」が誕生したのである。

小林秀雄は、この人物の一生を「聖者」の生涯だったと書いている。

   
『井筒俊彦--叡知の哲学』109頁

 井筒俊彦自身も19世紀のロシア文学について、「たしかに私の魂を根底から震撼させ、人生に対する私の見方を変えさせ、実存の深層にひそむ未知の次元を開示見せた」(『ロシア的人間』)と書いている。

 そして「この意味で、19世紀のロシア文学の諸作品は、どんな専門的哲学書にもできないような形で、私に生きた哲学を、というより哲学を生きるとはどんなことであるかを教えた」と云うのである。

 この井筒の言葉は小林秀雄をはじめとするドストエフスキーなどのロシアの文学者と深くかかわった人々の言葉として読むこともできよう。

 それでは井筒俊彦の中にある「ロシア的なるもの」とは何なのか?

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     ハイデルベルクにて

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