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2012年10月16日 (火)

井筒俊彦論7・・ギリシアの哲学者の実相

・・ギリシア哲学史、それは思想の歴史であるよりも、密儀宗教から誕生した信仰告白であるという確信が『神秘哲学』を貫いている。・・若松英輔さん

 この言葉に加えて、井筒俊彦はギリシアの哲人たちに「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

 観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

 神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

 アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

 それにしても井筒俊彦が『神秘哲学』で描くギリシアの哲学者の実相には、驚くべきものがある。

  彼らの哲学の根底には現代でいう「哲学」とはおよそかけ離れた、絶対者への希求と徹底的な実践とがあったのである。

 このことは現代人からはなかなか想像できないことであるが、要は私たちの中にもあらゆるものを疑い、そして徹底的な実践へと誘う“哲学の火”があることを確認さえすればよいのではないだろうか。

 ちなみに小林秀雄は「私の人生観」の中でヘラクレイトスと釈迦を並べて興味深いことを云っている。少し長くなるが、重要だと思われるので引用したい。

諸行無常の思想が釈迦を見舞ったと同じ頃、ヘラクレイトスは万物流転という事を考えていた。釈迦を観念論者と呼ぶ事が出来ない様に、ヘラクレイトスを唯物論者と呼ぶ事は出来まい。さような区別が、どんなに囚われずにものを考える力を、現代の知識人から奪っているか、これは気が附けば気が附くほど恐ろしい事だ。

二人とも、何ものにも囚われず、徹底的に見、徹底的に考える事により、当時の宗教や道徳や哲学から遙かに遠くへ行って了った人と想像されるのであって、その点では、釈迦も又、ヘラクレイトスの様に「暗い人」だったでありましょう。ただ、彼は、ヘラクレイトスの様に「泣いている智者」とはならなかった処が異る。

私の勝手な想像でありますが、釈迦の空とは、ヘラクレイトスの火の如きものではなかったかと思うのです。前者は内省から始めたかも知れぬ。後者は自然の観察から始めたかも知れぬ。

いずれにしても、人間的な立場というものを悉く疑って達したところには、空と呼ぼうと火と呼ぼうと構わぬが、人間には取り附く島もない「無我の法」が現れたに相違ない、という風に思われるのである。

彼等にすれば、かように思考するに到ったという事は、即ちかように知覚するに到ったかという事だ。ヘラクレイトスが岸辺に遊ぶ子供に火を見た様に、釈迦は、沙羅の花に空を見たでしょう。

そういう彼等の決定的な知覚が、空は教典註解者の手に渡り、火はストア派哲学者の手に渡り、どうにでも解釈出来る哲学的観念と変じた、と言えないでしょうか。

無我の法の発見は、恐らく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。進んで火に焼かれる他、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。

不死鳥は灰の中から飛び立たぬ筈があろうか、心ない火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰が言おうか。それが彼の空観である。私にはそういう風に思われます。

・・小林秀雄 「私の人生観」

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 ハイデルベルクの公園にて

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