井筒俊彦論4・・精神世界の山を登る
「井筒俊彦」がしばしば「存在と意識の構造モデル」として、三角形としての山、つまり登攀を用いていたことはこれまでも紹介してきた。
若松さんも次のように書いている。
徹底的に自己を滅っし、ひたすらに叡知界を希求する道を、井筒は「向上道」と呼ぶ。徹底してそれを行った者は、叡智的世界に安住するのではなく、再び現象界に舞い戻り、そこに叡知界の実相を再現しなくてはならない。その道を「向下道」と言う。
山を登る者は頂を目指すだけでなく、見た風景を記憶し、地上に降りて、それを伝えなくてはならない。頂で見る一切は、魅惑的なほど美しいかもしれない。
しかし、そこに安住するなら、道半ばであるにすぎない。
「向上道」的世界の非日常的現象に目を奪われ、見たことの実現に注力しないものは「神秘道」を放棄し、忌むべき逸脱を犯しているというのである。
・・次の一文は、古代ギリシアの哲人たちの不文律だったろうが、それは、井筒が自らの生涯に定めた律言でもあった。
現世を超脱して永遠の生命を味識するプラトン的哲人は、・・忘我静観の秘境を後にして、またふたたび現世に帰り、其処に・・永遠の世界を建設せねばならぬ。
イデア界を究尽して遂に超越的生命の秘奥に参入する人は、現象界に降り来たった現象界の只中に超越的生命の燈を点火し、相対的世界のイデア化に努むべ神聖なる義務を有する。
・・『井筒俊彦--叡知の哲学』24~25頁参照
簡単に言うならば、精神世界における山を登る者には、必ず危険もあるし、決まりを守る必要もあるということである。
つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の山の左側の「向上道」をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の「向下道」をひたすら降りてコトバで「無から有」を生み出そうとする。
ところが、ここに二つの問題が出てくる。
- 一つは、この精神世界における登山が本物か、どうかということである。つまりその山頂なるものがニセモノである可能性がある、ということ。
- 二つ目は、若松さんが指摘しているように、頂で見る一切があまりに魅惑的で美しいことから、そこに安住してしまうことである。
父の影響で始まった井筒俊彦の「修行道」が、中途半端に終わらなかったのも、この“山登りの危険性”を彼が最初から熟知していたからに他ならない。
« 小林秀雄のパラダイムシフト・・大事なのは自然に見られる事 | トップページ | ラズロ博士のパラダイムシフト・・宇宙は一つで共鳴している »
「哲学」カテゴリの記事
- 意識と存在の構造モデル3・・無の関門を通る(2019.10.25)
- 井筒俊彦と小林秀雄の共通点・・対話による叡智の発掘(2019.02.19)
- 「スーパーセルフ」の開発が人類を救済する・・(2019.01.02)
- 叡智の哲学者・井筒俊彦論・・総集編(2018.12.04)
- 逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の誕生(2018.09.18)
この記事へのコメントは終了しました。
« 小林秀雄のパラダイムシフト・・大事なのは自然に見られる事 | トップページ | ラズロ博士のパラダイムシフト・・宇宙は一つで共鳴している »
コメント