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2012年9月12日 (水)

井筒俊彦論4・・精神世界の山を登る

 「井筒俊彦」がしばしば「存在と意識の構造モデル」として、三角形としての山、つまり登攀を用いていたことはこれまでも紹介してきた。

 若松さんも次のように書いている。

 徹底的に自己を滅っし、ひたすらに叡知界を希求する道を、井筒は「向上道」と呼ぶ。徹底してそれを行った者は、叡智的世界に安住するのではなく、再び現象界に舞い戻り、そこに叡知界の実相を再現しなくてはならない。その道を「向下道」と言う。

 山を登る者は頂を目指すだけでなく、見た風景を記憶し、地上に降りて、それを伝えなくてはならない。頂で見る一切は、魅惑的なほど美しいかもしれない。

しかし、そこに安住するなら、道半ばであるにすぎない。

「向上道」的世界の非日常的現象に目を奪われ、見たことの実現に注力しないものは「神秘道」を放棄し、忌むべき逸脱を犯しているというのである。

・・次の一文は、古代ギリシアの哲人たちの不文律だったろうが、それは、井筒が自らの生涯に定めた律言でもあった。

 現世を超脱して永遠の生命を味識するプラトン的哲人は、・・忘我静観の秘境を後にして、またふたたび現世に帰り、其処に・・永遠の世界を建設せねばならぬ。

イデア界を究尽して遂に超越的生命の秘奥に参入する人は、現象界に降り来たった現象界の只中に超越的生命の燈を点火し、相対的世界のイデア化に努むべ神聖なる義務を有する。

・・『井筒俊彦--叡知の哲学』24~25頁参照

 簡単に言うならば、精神世界における山を登る者には、必ず危険もあるし、決まりを守る必要もあるということである。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の山の左側の「向上道」をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の「向下道」をひたすら降りてコトバで「無から有」を生み出そうとする。

 ところが、ここに二つの問題が出てくる。

  •  一つは、この精神世界における登山が本物か、どうかということである。つまりその山頂なるものがニセモノである可能性がある、ということ。
  •  二つ目は、若松さんが指摘しているように、頂で見る一切があまりに魅惑的で美しいことから、そこに安住してしまうことである。

 父の影響で始まった井筒俊彦の「修行道」が、中途半端に終わらなかったのも、この“山登りの危険性”を彼が最初から熟知していたからに他ならない。

04rose

 熱海で精神世界の山に登る・・

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