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2012年9月 3日 (月)

井筒俊彦論1・・「詩人哲学者」について

小林秀雄「本居宣長」という巨人の評論を書くときに、「ただひたすら読む」という一見地味な営みを通してその実相を描いていったように、「井筒俊彦」という哲学的な巨人を書く上でも「ただ読む」という宗教的な行にも似た無私な行為が必要だと思う。

 その点、若松さんの新著『井筒俊彦--叡知の哲学』には、沢山の哲人や神秘家が登場しているが、あくまで井筒俊彦自身の「神秘道」に迫り、その核心にあったところの「哲学的思惟の根源に伏在する観照的体験」「ただひたすら読もう」としている点に好感をもった。

 そう、その意味では「井筒俊彦」に「哲学者」という従来の呼称を冠するのは無理がある。

 彼がイスラムの神秘家イーブン・アラビーなどに神秘家かつ哲学者の「神秘道」を見ていたように、彼は「向上道」と自らが呼んだ求道を通して、「存在と意識のモデル」としての三角形の頂点をひたすら極めようとした「行者」「神秘家」でもあったのだ。

 このような「井筒俊彦」の立つ微妙な位置を、若松さんはうまく描いているように思う。

 もっというと、「井筒俊彦」という巨人は、学者や学会と云う「閉じられた世界」にいたのではなく、東西の文明の狭間という「開かれた世界」に立ちながら、思索続けた野性的な天才であったとも云える。

 この井筒の立ち位置を若松さんは「詩人哲学者」という呼称で書いていくのである。

 行と思想とが不可分であるという認識は、井筒の中で終生変わることはなかった。

彼は頭で理解するよりも実感を重じんだ。その態度は、彼の主著『意識と本質』に著しく現れる。

禅者道元における修道と認識の同時的深化を論じた考察、また、朱子をはじめとした北宋の儒者の行法、すなわち静座の重要性と学究との連関論がその好例だろう。

井筒俊彦の修道論は、稿を改めて論じなくてはならない。

・・『井筒俊彦--叡知の哲学』16~17頁

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