「至高体験」への道3・・ガブリエル・マルセルの場合
フランスの哲人、ガブリエル・マルセルの言う「現存」=プレザンスは、「主客」と「客体」との相対立する立場を超えようとする「存在観」と見てもよいだろう。
もちろんサルトルの言った「実存」という概念とも違う。(マルセルがサルトルと袂を分けた話は有名である。)
むしろマルセルの「プレザンス」は、マズロの言った「至高体験」に近いのではないか。
我々が海などの大自然の前に立ったときに、自と他との障壁がとれて、至高の喜びとともに、全てが光輝くような体験を持ったことは大なり、小なりあるはずである。
この体験下にあっては、もはや海と自分との違いもなく、全てが一つの協奏曲になって喜びのメロディーを鳴り響かせているではないか。
そこでマルセルが登場させているのがドビッシーの音楽である。
マルセルは小林秀雄との対話で次のように語っている。
私は「聖なるもの」を名詞化してはならないと申しました。
それは、先ほどあなたが、自然なものを客体化する以前の状態と言われたことと同じになるわけです。
そこで私は、音楽の持つ優越性ということを言いたいのです。音楽は、すべての名詞化のこちらがわに位置しているものだと思います。
・・・例をとれば、私にとってはっきりしているのはドビッシーです。「夜想曲」や「海」を考えていただきたいのです。雲や海は、私の言い方をすれば「現存」の中に与えられていると言えましょう。
「現存」ということは、物、客体として与えられてはいないということです。「存在」としての雲、「存在」としての海なのです。どうもうまく言い表せませんが・・。
フランクフルトの雲が流れる
マルセルに言わせれば、自然はもとより、人にも「現存」があるという。
現存とはですね、「客体」としては構成されないでも、あり得るのです。たとえば人の「現存」を感ずることができるわけです。
ジュリアン・グリーンのことを思い出しますが、あの人はそういったことに感受性の強い人です。
彼は、私がおそろしい自動車事故のあとで寝ていたとき、会いに来てくれました
が、その時部屋の中に誰かがいるのを感ずると言いました。
おそらくは、私が失った愛する人たちのことなのでしょう。
それは「現存」の一つの特徴なのです。
「現存」として感じられた「現存」、客体化されていない、また、され得ないものです。
このプレザンスの考え、体験が、神道の中心にあるのではないかと思われます。
それで大変に興味を持ったわけですが、またむずかしいことでしょう。
この考えは概念化できませんから。
ですから科学とは全く離れているものです。科学の与件はすべて概念化しうるものです。
宮崎の神社にて
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