「神秘の夜の旅」・・6
若松英輔さんによると、「夜」は命名しがたき「深淵」であり、無形の絶対的実在、すなわち「存在」の世界であるという。
この「神秘の夜の旅」にあっては、まず何よりも言葉の帳を上げて、「無形の絶対的実在」 に推参しなくてはならない。
小林秀雄もそのベルクソン論で次のように指摘している。
言葉の帳(とばり)は、殆ど信じ難いほど厚い。
・・帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在している。・・ベルクソン論「感想」
小林の論じたベルクソン論のテーマの一つが、生活の利便性のためにつくられた「言葉の帳」をとって実在を如何に観るか、ということであった。
私達は日常生活の地盤のうちで、常に物や私達自身に対しても「言葉の帳」でもって抽象化し、単純化して接している。
- この慣性を打ち破って、対象そのものと一つになること。
- 「言葉の帳」で覆うのではなく、知覚の拡大により本物に触れること。
小林はこのベルクソンに習ったことをそのまま徹底的に実践しようとした。
それを実践するにあたって、見本となるのが芸術家たちだ。
「詩人や芸術家とは、この帳が、薄くなり、透明になった人達」(感想)であり、小林の批評とは言葉や認識の帳をとって、実在に推参することであった。
この帳は厚いもので、自然や私達だけを覆っているのではない。
近代の人間がその価値観で帳をつけた歴史上の天才達にもあてはまる。
本居宣長は、天才的な文献主義者であったが、どうしてあのような幼稚な信仰を持つに到ったのか・・と云った“近代の帳”をかなぐり捨てて、天才の肉声に迫ろうとしたのがあの大作『本居宣長』であった。
それはとにかく、一度、「神秘の夜の旅」に出発し、「言葉の帳」を捨てて直に周囲のものを観る冒険に旅立ってみるのもいいのではないだろうか。
何も遠くに行く必要はない。近くの神社に詣でて、そこにある竹林や古木を虚心に観ることも、りっぱな「知覚(近く)の冒険」ではないだろうか。
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