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叡知の哲学・・42

 ベルクソンの言う直観という第三の道とは、変化と云う「実在の流れ」をそのまま受け取る認識方法とも云えるだろう。

『思想と動くもの』の「変化の知覚」の中でベルクソンは言う。

「われわれは、あたかも変化が実在しないかのように、推論し、哲学している」

 われわれの知性はあたかも蝶がサナギから抜け出た後の抜けがらを捉える傾向があり、自由に動き回る蝶はわれわれの指の間からいつも抜け落ちている。

 知性は「結合し、分離し、または配列し、かき乱し、整頓するが、創造はしない」のである。

 このような知覚や知性の内に潜む「自動置き換え装置」なるものを仏教では「迷い」と呼び、インドのヴェーダンタ哲学では「マーヤー」と名付けている。

 この「マーヤー」という問題を現代の認識論の問題として浮上させたのが井筒俊彦だった。

 井筒は、そのエキサィティングな論文「マーヤー的世界認識」の中で、われわれの認識の持つ構造的な問題点を見事に描いてみせている。

 井筒はこの中で、人間意識に内在する根源的無知が意味文節的にブラフマンに「付託」(かぶせ)する様々な現象形態の枠づけを通して、ブラフマン自体が、コトバの意味の指示する事物事象の形を帯びて現われることを「マーヤー的世界」と呼ぶ。

 そして経験する認識主体である「個我」そのものがマーヤー化した意識だということに注意を促している。

「『個我』は身体的主体性であることに注目されなくてはならない。

『個我』の決定的に重要な特徴の一つは、身体との密接な結びつきである。

『個我』は受肉せるアートマン。純粋真正の主体性(本当の意味での『私』、つまりアートマン)は、身体と結合することによって、その認識能力は混濁し、身体器官の制約を通じてのみ機能するので、もはや存在実相(ブラフマン)はあるがままに認識することができない。

このように受肉した主体にとっては、絶対無制限的なブラフマンは、雑然と紛糾する多者の世界としてのみ現象する。それがマーヤー的世界なのである」

 つまり、身体と結合して混濁した認識能力は、「存在」そのものをとらえずに常にある「かぶせ」を行っている。

 これは井筒の言うコトバとしての分節機能であり、分節とは「文字どおり、区別し、分別し、分割し、分離させること。元来、分割線が全然引かれていないカオス状の事態に、あるいは分割線は引かれてはいても、それが漠然として浮遊的であるような事態の表面に、比較的明確な線を引いて区割し固定する」ことだという。

 その身体としての「私」は、刻々一刻、生活の便宜のために本来は生き生きと動いている「存在」に線を引いて区割りし、固定したものに置き換えているのである。

 このわれわれの知覚と知性そのものに潜むマーヤー的なるものを、明らかにすることは、21世紀の新しい形而上学を創造していく上でとても大切なことだと思う。

 換言するならば、約40億年という途方もない時間をかけて培ってきた「生命の自動認識装置」をより次元の高いものに昇華する必要があるのである。

 この意味で、ベルクソンの説く「直観」とは、知覚や知性の持つマーヤー的なものを超越したものであり、ひたすら実在と共感・共鳴する認識方法だとも言えよう。

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 フランクフルトのレストランにて

 

 

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