叡知の哲学・・30
井筒俊彦の業績の中でも燦然と輝いているのが『コーラン』の翻訳である。
我々が未知の聖典『コーラン』に親しむことができるようになったのも、井筒俊彦が訳した岩波文庫の『コーラン』のおかげであることは言うまでもない。
若松英輔さんの『井筒俊彦--叡知の哲学』第七章「天界の翻訳者」によると、彼は二度『コーラン』を翻訳しているという。
新旧の訳の間に、初めての海外への長期にわたる研究留学を体験しており、特にカイロにおけるイスラーム学の研究者との対話が、新訳着手の決定的な契機になったようだ。
先に触れたイスラーム圏への「留学」で井筒は、イスラームの日常を経験し、生きたコーランに出会う。
コーランは読まれるものではなく、誦まれるもの。
人間の証言でなく、啓示された神のコトバ。この旅で彼はそれを体感した。
また、聖典の一語をめぐってかつて多くの哲人たちが文字通り命を懸けた伝統にも、直接触れたのである。(同書266頁)
井筒俊彦自身もこの全面的な改訳について、次のように書いている。
『コーラン』の翻訳はむずかしい、と言うよりむしろ端的に不可能事である。
特に現代日本語の口語訳の制限内では原文のもつ比類のない荘重さが全て消えてしまうからなおさらその感が深い。
『コーラン』(上)「改訳の序」
このような困難を押しても井筒をして改訳に向かわせたのは何だったのか。
それはズバリ・・エクリチュール(文字)として与えられているテキストとしての『コーラン』を、できるだけ神が予言者マホメッドに直接話しかけた現場にまで遡ってパロール(音声)としての「コーラン」を再現することではなかっただろうか。
つまり、コーランを「読む」だけでなく、「誦む」必要が出てきたわけである。
ここに「読む」ことは「誦む」という、より高度な次元につながる営みに昇華していくのだが、詳しいことは彼の名著『コーランを読む』を参照していただく他はないが、『コーラン』(上)の解説では次のように井筒は書いている。
『コーラン』の原語「クルアーン」とは、もと読誦を意味した。
この聖典は目で読むよりも、文句の意味を理解するよりも、何よりも先にまず声高く朗誦されなければならない。
考えて見るともう一昔前になるが、始めて本格的な「カーリウ」(コーラン読み)の朗誦を聴いた時、僕はやっとこの回教という宗教の秘密がつかめたような気さえしたものだ。・・
・・元来『コーラン』は『旧約聖書』や『新約聖書』と違って説話体ではない。
例えばマタイだとかヨハネだとかいう記録者がいて、その人が自分の筆で話しをあとから纏めて行ったものではなくて、直接じかに神自身がマホメットにのりうつって、その口を借りて話しかけて来るその言葉をその時その場で記憶に留めたものである。
なまの神様の語りかけである。
だからよほど荘重ににやらないとすこぶる滑稽になる。
アッラーの祝福のあらんことを。
生後7ヵ月の赤ちゃんを「コーラン」を誦みながら祝福する。
・・インドネシアの首都ジャカルタの民家にて。
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