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2011年6月 8日 (水)

叡知の哲学・・5

 「井筒俊彦」がしばしば「存在と意識の構造モデル」として、三角形としての山、つまり登攀を用いていたことはこれまでも紹介してきた。

 若松さんも次のように書いている。

 徹底的に自己を滅っし、ひたすらに叡知界を希求する道を、井筒は「向上道」と呼ぶ。徹底してそれを行った者は、叡智的世界に安住するのではなく、再び現象界に舞い戻り、そこに叡知界の実相を再現しなくてはならない。その道を「向下道」と言う。

 山を登る者は頂を目指すだけでなく、見た風景を記憶し、地上に降りて、それを伝えなくてはならない。頂で見る一切は、魅惑的なほど美しいかもしれない。

しかし、そこに安住するなら、道半ばであるにすぎない。

「向上道」的世界の非日常的現象に目を奪われ、見たことの実現に注力しないものは「神秘道」を放棄し、忌むべき逸脱を犯しているというのである。

・・次の一文は、古代ギリシアの哲人たちの不文律だったろうが、それは、井筒が自らの生涯に定めた律言でもあった。

 現世を超脱して永遠の生命を味識するプラトン的哲人は、・・忘我静観の秘境を後にして、またふたたび現世に帰り、其処に・・永遠の世界を建設せねばならぬ。

イデア界を究尽して遂に超越的生命の秘奥に参入する人は、現象界に降り来たった現象界の只中に超越的生命の燈を点火し、相対的世界のイデア化に努むべ神聖なる義務を有する。

・・『井筒俊彦--叡知の哲学』24~25頁参照

 簡単に言うならば、精神世界における山を登る者には、必ず危険もあるし、決まりを守る必要もあるということである。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の山の左側の「向上道」をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の「向下道」をひたすら降りてコトバで「無から有」を生み出そうとする。

 ところが、ここに二つの問題が出てくる。

  •  一つは、この精神世界における登山が本物か、どうかということである。つまりその山頂なるものがニセモノである可能性がある、ということ。
  •  二つ目は、若松さんが指摘しているように、頂で見る一切があまりに魅惑的で美しいことから、そこに安住してしまうことである。

 父の影響で始まった井筒俊彦の「修行道」が、中途半端に終わらなかったのも、この“山登りの危険性”を彼が最初から熟知していたからに他ならない。

 ちなみに先の二つの問題は、改めて論ずることにするが、ここでは拙著「ベルクソン・ルネッサンス」から該当箇所を紹介しておくことにする。

・・神秘主義一般に決定的な転身の序曲となるエクスターズの境地があることは周知の事実である。この脱我や見神体験や恍惚感が心理学者の絶好の分析材料になっていることは言うまでもない。彼らいわく、「そうした状態は精神病患者の場合にもよく起こる現象であり、精神衰弱の一状態にすぎない」と。

 これに対してベルクソンは確固として神秘家のそれと病者は違う秩序にいると断言する。

もっとも、それらの異常状態を病的状態と識別することが容易でないことも確かだ。そして他ならぬ大神秘家達は、その状態に甘んずることを自ら戒めた人であったのだ。

「こうした神秘家たちこそ、単なる幻覚にすぎぬかもしれぬ見神体験に対して、余人にまさって弟子たちを戒めた人たちだった。また彼らが自らなんらか見神体験を経験していた場合にも、彼らがそれに与えた意義は普通第二義的なものでしかない。それはちょっとした途上の出来事にすぎなかった。それは、極致に達するために越えられねばならぬものだった。また恍惚や脱我も、自分の背後へ遺して進まれるべきものだった。そしてその極致とは、人間の意志と神の意志とが一つになる状態である」
・・ベルクソン、『道徳と宗教の二つの源泉』

04rose

 熱海で精神世界の山に登る・・

 

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