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2011年6月 6日 (月)

叡知の哲学・・3

 井筒俊彦のキーワードとも言うべきものが「哲学的思惟の根源に伏在する観照的体験だ。

 若松さんによると、井筒はこの観照が純粋の局に達したとき、人間は「脱自」(エクスタシー)を経験する・・と見ていたという。

 それは人間が何かを慕うように、存在の根源へと飛躍する経験、「すなわち人間の内なる霊魂が肉体の外に脱出して、真の太源に帰没すること」に他ならない。

 しかし、「脱自」だけで終わるなら、肉体を飛び出た魂は、大地に叩きつけられてしまうかもしれない。「脱自的体験」の極点に接した瞬間、人間は即自的に「神充」を経験する。身を捧げ、自己の存在を無化した者を、超越者が間髪入れずに充足する。人間は、自らを完全に脱したとき、「神」が瞬く間にその空白を充たすという現象に遭う。

 古代ギリシアの哲人たちにとって、観照とは超越者を思慕する神聖なる営みだった。それは内面の修道ではあるが、私たちが、外面的世界で経験する以上の試練と危機に直面しなくてはならない、身を賭すべき営為だったのである。

 また、彼らにとって哲学とは、自己無化である「脱自」の果てに訪れた「神充」の経験に論理の肉体を付与し、世界に記録することだった。

だから彼らは、哲学の始原が人間にあるとは考えない。

プラトンが哲学における始原的営為を、「想起」と呼んだように、哲学とは考えることではなく、思い出すこと、叡知界の記憶を手繰りよせることだった。

・・『井筒俊彦--叡知の哲学』9~10頁参照

 井筒俊彦にとっても「哲学する」とは、ここで示されているように「超越者を思慕する神聖なる営み」であり、身を賭すべき営為」であった。

 それにしても、「哲学の創始者」とでも呼ぶべきギリシアの哲人たちにとって、「哲学とは考えることではなく、思い出すこと、叡知界の記憶を手繰りよせることであった」とは、何と面白く、そして鋭い指摘であろうか。

 どうしても論理的、思弁的なものにならざるを得ない哲学の世界だが、その始まりにおいては、超越者に対する思慕という強烈なパトスが潜在していたのである。

 ちなみに小林秀雄も「思い出す」ということの重要性に言及したことがあったと思う。

 それでは「井筒俊彦」自身の「観照的体験」とでも呼ぶべき「原体験」とは何だったのだろうか。

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 フランクフルトで「哲学する」・・
      (ゲーテ像の前で)

 

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