叡知の哲学・・14
井筒俊彦が強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。
小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。
確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。
無垢ではあるが、アリーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。
井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。
罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。
それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。
憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。
殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。
また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。
いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。
静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。
・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。
何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。
しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。
そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・
無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。
そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。
しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。
さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」
こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。
いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。
読者もアリョーシャとともに「一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。
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