叡知の哲学・・12
井筒俊彦が、ドストエフスキーの「途方もない作品」(小林秀雄)に見た「新しい人間」「新生活」とは具体的には何だったのだろうか。
若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒の言葉を紹介しながら、次のように言う。・・『叡知の哲学』114頁
「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった。
「ここでひとつ諸君に秘密を教えてあげようか。これは、もしかすると、最初から最後まで、ぜんぜん夢なんかではないかもしれないのだ! なぜなら、夢には決して出てくるはずのない、恐ろしいほどの真実がそこで生じたからである」(「おかしな人間の夢」太田正一訳)。人はそれを幻だと嘲っても、自分には目の前にあるコップを触るような、それ以上の現実感がある。
ドストエフスキーの偉大さは、何ものかを「見た」点にあるのではない。
そのヴィジョンの指し示す世界を、実現しようと生涯を捧げたところにある。
井筒俊彦自身も・・彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた・・と『ロシア的人間』で言及している。
キリスト教的信仰で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景をドストエフスキーは描こうとした、とするのである。
井筒によると、ドストエフスキーにとって、「通常の人間の思惟・感覚を超絶する永遠の秩序が、我々の現実的生活の次元に、どこから侵入して来て、現にそこで働いているという事実は、誰から教えてもらうまでもなく、彼にとってあまりにも自明なことであった」と云う。
なぜなら、ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさにその「神の国」の「永遠の秩序」を垣間見ていたからだ。
・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。
永遠性の直観、「永遠調和」の体験。それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。
それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。
これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。
『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より
この「永遠の調和」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、彼の「途方もない作品」に繰り返し描かれている。
それは、「人間実存の根源的変貌、表層的『自我』から深層的『自我』への転換、もっとくだいて言えば、人間を根底からつくりかえること」(「人間存在の現代的状況と東洋哲学」)、つまり「新しい人間」として復活することであった。
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