« 小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・7 | トップページ | 生命論パラダイムの経済論 »

小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・8

 白州信哉氏(小林秀雄のお孫さんで、白州次郎と白州正子を父方の祖父母に持つ)は、「祖父・小林秀雄の言葉に学ぶ」と題して、次のような興味深い指摘をしている。

 晩年に著した『本居宣長』は、『古事記』という文献のできる以前の、まだ文字のない神話の世界にまで思索を及ぼし、宣長の思想を現代の言葉で伝えようとしています。「肉声だけで足りた時期が何万年あったか」という言葉には、小林の思いが端的に述べられています。

 そう、小林がフランスの哲人・マルセルに伝えたかったのも、わが日本にあっては「肉声だけで足りた時期が何万年あったか」という日本独特の言語の歴史である。

 具体的には、一連の話の流れの中で「自然」という言葉が取り上げられる。

 小林によると、「自然という言葉は中国から来た言葉」であるが、口誦では“自”(おのずから)という言葉であり、副詞であるという。しかもおのずからという言葉も、みずからという言葉も、日本人の生活的言語としてははっきりした区別さえない、という。

 つまり、欧米から入ってきた「ネイチャー」という言葉を日本人は「自然」と翻訳したわけだが、わが国古来の口誦としての歴史にあっては、自然を人間に対立したものとして名詞化できるものではなかった。

 むしろ、それは人とネイチャーを超えたところの自ずから然らしめるところの大いなる創造力であり、それを「じねん」と呼び、尊んできたのであった。この力を宣長は「産霊(ムスビ)の神」の働きによるものとして、とりわけ重宝した。

 試しに「しぜん」という言葉より、「じねん」という響きに、私たちは無意識に反応するものがあるのではないだろうか。

 「じねん」という言葉には、やはり日本人が長い間、培ってきたところの無私の生き方と独特な世界観を感ぜずにはおれない。

 ちなみにこのような自他を超えた力を親鸞は、やはり「じねん」(自然)と呼び、次のように説いている。

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。

04rose

     熱海の海を望んで

|

« 小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・7 | トップページ | 生命論パラダイムの経済論 »

小林秀雄」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/143752/38590449

この記事へのトラックバック一覧です: 小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・8:

« 小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・7 | トップページ | 生命論パラダイムの経済論 »