小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話・・12
二人の「自然」と「プレザンス」(現存)を巡る対話もいよいよ終わりに近づいてくるのだが、マルセルは自身の思想の中で神秘(ミステール)というのが重要な役割を果たしていると切り出す。
彼によると、不可知論者の「知り得ないもの」は、全然、人が鍵を持たないもので、漠然とした暗やみであるのに対して、神秘とは「明るくするもの」であり、「プレザンス」も同じだという。
そして音楽も同次元にあるもので、すべてのものを輝かしているというのである。
具体的には、日本に来る前に寄ったスイスのランガディールの湖のそばにあるカラマツの森で、マルセルは「聖なる場所にいる」という感情を受けたという。
マルセル そのカラマツの下を行くと、非常にゆるやかな勾配で湖にまで至っていました。
なぜその光景にうたれたかというと、それが神秘的であると同時に透明だったからです。・・そういう聖なる感情を与えるものは恐怖の感情を排除するもので、なんらかの超越的なものです。
小林 神道には恐れというものがありません。威圧する神様がなくて、大変明るいものです。
スイス レマン湖
マルセルのスイスにおけるプレザンスの体験は、ドストエフスキー『白痴』の主人公のムイシュキン公爵のやはりスイスでの「至高体験」を思い出させるものがある。
ムイシュキン侯爵はスイスの田舎で療養したころのことを回顧しながら、次のようなコメントをアグラーヤなどの若い娘にするのである。
「私のいた村には滝が一つありました。あまり大きなものではないんですが、高い山の上から白いしぶきをあげて騒々しく、細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちているのです。ずいぶん高いところから落ちているんですが、妙にそれが低く見えました。家から半キロメートルもあるのに、それが50歩くらいしかないような気がするんです。
私は毎晩その滝の音を聞くのが好きでしたが、そういうときにはよく激しい不安に襲われたものです。それからまた、ときにはよく真っ昼間にどこかの山にのぼって、大きな樹脂だらけの松に取りまかれて、たった一人で山の中に立っていますと、やはりそんな不安が襲ってくるんですよ。
はるか頂上の岩の上には中世紀の古いお城の廃墟があって、眼下には私の住んでいる村が、かすかにながめられます。太陽はさんさんと明るく輝いて、空は青く、しいんとこわいような静けさなんです。
そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持になったのは。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空とが接している向こうがわまで行けたら、そこではありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力づよい、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。
それから私はしょっちゅうナポリのような大きな町を空想していました。そこには宮殿が立ちならんでいて、ざわめきとどよめきと生活があるのです・・・・いやっまったくいろんなことを空想したものですよ! それからあとになって、私は牢獄の中でも偉大な生活を発見できると思うようになりましたよ」
この公爵のコメントは、まるで一編のメルヘンのようでもあり、美しいポエムのようでもあるが、新しい生活が到来する予感にあふれている。
おそらくマルセルの語る「プレザンス」も、この侯爵のような忘我の体験であり、新しい世界の発見でもあったのである。
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