2020年8月23日 (日)

人類の意識の進化

東日本大震災、豪雨、スーパー台風の被害などで明らかになってきた新潮流は、コミュニティの拡大や「自然と共生する文明」へのシフトに伴う「新しい自己像」の誕生である。

 他ならぬ私たち人類の間で「全ては一つ」という新しい世界観ともっと拡大した自己像が誕生してきているのではないだろうか。

 この「新しい自己像」アーヴィン・ラズロ「人類の意識の進化」とも呼んでいる。

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 現在の地球は、今回の大震災はもとより、地球環境問題、頻発するテロ、異なる宗教的信条の違いによる軋轢、文化、人種、肌の色、言語、政治的信念の違いによる摩擦など、まるで沸騰した一つの鍋の中で全ての問題が煮立っているような状況である。

また今回の震災では世界中の人々の善意が集まるというポジティブな面も見られる。

 まして発達したインターネット網がそれらを一つにつないでより沸騰する速度を高めている。

 これらに加えて、宇宙の根本法則である進化の波動が、この悩める惑星には宇宙線のように無数に降り注いでいるように見えるのだ。

 このような地球温暖化も含めて加速度的に出来事を早めている動きは、実はラズロの云う「人類の意識の進化」も促しているのではないだろうか。

 日本が産んだ世界的哲人の一人、井筒俊彦博士は、このようなグローバル化、地球的社会にあっては、何よりも人間そのものを作り変える必要があると説いておられた。

それ(地球社会化)に内在する深刻な危険をはっきり意識しながらも、

しかもなお、我々が人類文化のグローバラゼーションの理念を信じ、『地球社会』の理想的な形での形成に向って進んで行こうと望むのであれば、

何よりも先ず我々は、我々自身を作り変えなければならない。

すなわち、我々の実存の中心を『自我』のレベルから『自己』のレベルに移行させなければならない。

あるいは、より正確に言うなら、『自我』を『自己』の表層的一部として、それを『自己』の多層構造全体のなかに定位しなおすことによって、完全に変質させなければならないでありましょう。 

井筒俊彦博士『意味の深みへ』

「人間存在の現代的状況と東洋哲学」から

 簡単に言えば、エゴという狭い自我から、セルフという拡大した自己へと私たちの実存の中心を移行させる必要があるのである。

 この転換を図る上で、参考になるのが井筒俊彦博士の「イスラム哲学の原像」や横山紘一氏の「十牛図入門--『新しい自分』への道」などの唯識論である。

2020年2月19日 (水)

一瞬で世界を変える


一瞬で世界を変える方法・・

それは.....

 

今、見ているもの、出合っているものの

 

本物を観るということです。

 

私たちが間断なく出合っている人、物、事、自然には

 

それぞれに見せる顔というものがあります。

 

ただ、そこには本物と仮のお面を被っている偽物の二つがあるのです。

 

例えば、この地球上で見せている生命の姿も仮のものであり、本来の生命の本質はほんの少ししか現れていないのではないか、と観るのです。

 

私たちの命は地球上の重力下という特殊な環境のもと、様々な種を生み出し、この地球上に満ちあふれているわけですが、それでも生命の持つ無限性から観るならばまだまだなのです。

 

この命の持つ可能性、無限性に目を向けて行動するとき、世界は変わります。

 

なぜなら、今目にしている苦しみも問題も生命の無限性がこれから現れるためのプロセスにすぎず、本物ではないからです。

 

例えばハイポニカという農法を編み出した野澤さんという人をご存じでしょうか。

 

以前の文章から引用してみましょう。

野澤重雄氏ハイポニカ(水気耕法)によるトマト、キュウリ、サトウキビなどの栽培は示唆にとんでいる。

一株のトマトから一万三千個ものトマトが実るという驚嘆すべき栽培法の基本は、野澤氏によると本来の生命力は、現在の地球自然の状態では発揮されておらず、その制限している原因である土という塊から解き放ち、養液を流速を与えて循環させている水の環境に置いてやると
本来の驚くべき生命力が現われてくるというのだ。

同氏によると生命の本質とは「生長・発展する力」であり、「変化し、動いている」ものである。


この本質を引出す環境を設定すると生命は無限に生長する右上がりのベクトルをとるという。生命は変化、動きを通してその本質(生長・発展する力)を露にしていく。

 言わば、
地球上における生命は物質という強い抵抗に合いながら顕現している「生命の見かけの現象」であり、ベルクソンの言うエネルギーの蓄積と爆発という「生命の本質」をおおい隠しているのである。

 この生命の本来持つ驚くべき「生長・発展する力」を信じて見守る。

 

 そして伸びる兆しが見えれば全身全霊で誉めて、感謝すること。

 

 このことができるようになれば、間違いなく世界は変わります。

 

 

 

 

 

 

 

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2020年1月 3日 (金)

「生命論パラダイム」への大転換・・田坂広志氏のパラダイムシフト

2018年7月25日 (水)

 

 


 

 

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田坂広志氏の「ワールドシフト」である。

 

 

 「生命論パラダイム」へのシフトを、田坂氏は「志」にしておられるように思う。

 

 

 田坂氏によると、現代はまだ人類の「前史」とも云うべき時代であり、本当の人類の輝かしい「本史」はこれから始まる・と仰っている。

 

 

 具体的にいえば、人類は「機械論パラダイム」から「生命論パラダイム」へと大きくその価値観の舵取りを変えようとしているのだ。

 

 

 これまでの「機械論パラダイム」の旗のもと舵取りしてきた現代文明は、環境問題などの地球的な問題によって、半ば座礁しつつある。 

 

 

 

 

 このような中で登場してきたのが「生命論パラダイム」という新しい旗印である。

 

 

 この新しいパラダイムは、実は古代から連綿と続く精神世界の叡智やベルクソンなどの生命の哲学とも共鳴する思想を含んでいる。

 

  21世紀の初頭、「生命論パラダイム」への大転換が起こりつつあるのだ。

 

 

 

そこで計12回に渡った小論を総集編としてまとめておくことにした。

 

 

 

 田坂氏の志に耳を傾けてみよう。

 

 

 私たちはいわばこの「本史」を開くための先駆けとしての使命をになっているのであり、そのための一つの「礎」なのだ。

 この「礎」は一つ欠けても城を築くことはできない。



 もし、我々が、

 この時代を良き時代とするために、
 

 

 力を尽くして歩むことができたなら、 

 

 我々は、未来の世代に、 

 

 大切なものを伝えることができる。


 我々の「志」 

 

 

 

 それを伝えることができるだろう・・田坂広志

 

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◎総集編

 

「生命論パラダイム」の時代へ2・・要素還元主義からの脱却 

 

 


「生命論パラダイム」の時代へ10・・天下一品の価値観 

「生命論パラダイム」の時代へ11・・古い文明の叡知 

「生命論パラダイム」の時代へ12・・文明の螺旋的発展 


「生命論パラダイム」の文明論 

2019年12月31日 (火)

宇宙的目覚めの時代へ・・逆境で生まれる新文明

龍村仁さんによると、かつてアポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートは次のように語ったことがあったという。 




 



「私達人類は今、宇宙的誕生(コズミックバース)、宇宙的目覚めの時代にさしかかっている」

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 これは、「赤ちゃん(人類)は、生まれ出て(宇宙から地球を見て)初めてお母さん(地球)を自分とは別の存在である、と認識し、そこから、母の一方通行の愛に甘えるだけではなく、母に対する感謝の気持ちや愛を育み、責任感を持つようになる」(龍村さん)という意味だそうだ。

 

 とすれば、現代文明がトインビーの云う様々な挑戦を受けている現在の逆境は、人類が宇宙的に誕生するための「陣痛」であるとも言える。

 

 現在の地球上の人類は大きな逆境にありながらも、その力を借りながら新しい文明の形をつくろうとしているのである。

 

フランスの哲学者、ベルクソンによると、生命はあらゆる逆境を乗り越える力をもっており、創造的に進化しようとしていると云う。



 

 まさに東日本大震災や気候変動に伴う災害の痛手から立ち上がろうとしておられる皆様の活躍に私たちが感動するのも、どんな逆境に遭いながらも、それを乗り越えようとしている生命の力、「創造的進化」の力に共感するからに違いない。以下、「逆境で生まれる新文明」1回目の序論と2回目以後の論考である。

 

人類は「宇宙的目覚めの時代」へ入ろうとしているのである。

 

 


平成23年4月18日付の日経新聞には、「トインビーをもう一度・・不都合な真実に『応戦』を」と題した興味深いコラム(土谷英夫氏)が掲載されていいた。

 

 そのコラムによると、英国の歴史家トインビーは文明は逆境から生まれると説いていたという。


・・文明は自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。

 

例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。

・・トインビー流に言えば、大地震・大津波という自然的環境からの挑戦と、原子力エネルギーに依存する人間的環境からの挑戦を同時に受けているのが、いまの日本。間違いなく66年前の「敗戦」以来の逆境だ。

・・「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という「易経」の一節は、トインビーの文明論の核心をよく言い当てている。

 

明治維新でも、終戦後でも、国のかたちを変える改革を断行した。いま変わらなければ、日本は衰退する。

 また、トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげているという。状況に振り回され、応戦できない文明は衰退するというわけである。 
  
 換言すれば、ポジティブに「応戦」できれば、今回の大震災は新しい文明やパラダイムが生まれてくる可能性もあるのではないだろうか。

 

 例えば惑星間というより大きな視点から見るとき、大震災後、下記の三つのパラダイム転換が起きてきているように思う。

 

 
①拡大したコミュニティー意識の誕生
②「自然と共生した文明」への進化
③新しい自己像の萌芽

 

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逆境で生まれる新文明2・・拡大したコミュニティー意識の誕生

 

逆境で生まれる新文明3・・「自然と共生した文明」への進化

 

逆境で生まれる新文明4・・新しい自己像の萌芽

 

逆境で生まれる新文明5・・十牛図による新しい自分の発見

 

逆境で生まれる新文明6・・惑星的思考へのシフト

 

逆境で生まれる新文明7・・ラズロ博士の「ワールドシフト」

 

逆境で生まれる新文明8・・課題解決先進国・日本文明のミッション

 

逆境で生まれる新文明9・・ジネン(自然)の思想

 

逆境で生まれる新文明10・・宇宙的目覚めの時代

 

逆境で生まれる新文明11・・ベルクソンの「精神のエネルギー」 

 

逆境で生まれる新文明12・・新しい精神の科学 

 

逆境で生まれる新文明13・・新しい精神の科学2 

 

逆境で生まれる新文明14・・慈悲の文明(悟りの文明)の誕生

 

逆境で生まれる新文明15・・祈りの文明へ・・科学と宗教の対話

 

逆境で生まれる新文明16・・祈りによる高次元の開拓 

 

逆境で生まれる新文明17・・村上和雄氏の説く魂と遺伝子の法則 

 

逆境で生まれる新文明18・・「サムシング・グレート」から考える 

 

逆境で生まれる新文明19・・コスモス(宇宙)の一貫性 

 

逆境で生まれる新文明20・・思考のすごい力 

 

逆境で生まれる新文明21・・月面上の思索

 

逆境で生まれる新文明22・・創造的に進化する宇宙

 

逆境で生まれる新文明最終回・・「知られざる大陸」を求めて

2019年12月26日 (木)

「意識と存在の構造モデル」5・・完全な神との合一


 井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」(三角形)を使うと、様々な神秘家や哲人たちの悟りに至る道を概観することができるようになる。
 例えばベルクソンの晩年の大作「道徳と宗教の二つの源泉」では、キリスト教の神秘家たちが次の段階を踏んで神との合一に至ったことを紹介している。

 

 ベルクソンはこの神秘家たちこそは「完全な神秘主義」に至っていたとする。


①転身のための序曲
     ↓
②前方への跳躍のための「闇夜」の経験
     ↓
③完全な神との合一

 

  この③の「完全な神との合一」の地点が、井筒のモデルで言えば、三角形の頂点にあたる。


 あらゆる神秘家は転身のきっかけとなる出来事を体験するとともに、魂の「闇夜」の体験をしながら、さらに三角形の頂点を目指して向かって左側の辺を上昇していく。


 そして「絶対無」という頂点に達した魂は、今度は右側の辺を自ずと下降していくことになる。


 具体的には、ベルクソンは「完全な神秘主義」を実現した人々として、キリスト教の聖パウロ、聖テレジア(スペインの神秘家でカルメル山修道団の創始者)、シェナの聖カテリナ、聖フランシス、ジャンヌ・ダルクなどの名前をあげる。


ベルクソンはそれらの個々の事例には深入りすることなく、「完全な神秘主義」に至る特徴を指摘している。


 特に十六世紀スペインのカルメル会的神秘主義には、井筒俊彦と同じく西洋の神秘主義におけるクライマックスを見ていたようで、彼が晩年、その研究のためにスペイン語の修得に努めた話は有名だ。


 ベルクソンは「完全な神秘主義」に至った魂の状態を次のように詳説している。


もう、ここからあとは、魂にとって満ち溢れてくる生があるだけだと言おう。
 
あるものはただ、尋常ならぬ、巨大なエランである。
 
魂は抗うに術もない力に押され、魂はこのうえもなく広大な企図のうちへ投げ込まれる。
 
魂の全能力が静かに昂揚する結果、魂の視界は広げられ、魂は弱くとも、その実現する力は逞しくなる。
 
わけても、魂は以前とは違ってすべてを単純に見るようになっており、この単純さが言行いずれにおいても目立ってくる。
 
魂は、この単純無雑に導かれて、錯雑したーーとはいえ、その目にははいりさえしまいがーーさまざまな状況を突破してゆくのである。
 
……こうした魂の自由は神の活動と一つなのである。
 
この努力、堅忍力や持久を見れば、そこには精力の巨大な消費のあることがわかるが、このエネルギーは、必要なだけすぐさま恵与される。
 
なぜなら、そこに必要な、惜しみなき活力の充溢が流れ出てくる源泉は、それこそ生の源泉そのものにほかならぬのだから。
 
ここに至れば、さまざまな観照も、もはやはるかな背後にある
ここでは魂はすでに神性で満たされているのだから、神格の顕現は魂の外からのものではありえない。

   

2019年10月26日 (土)

「意識と存在の構造モデル」4・・イブン・アラビーの「存在一性論」

井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」=三角形モデルの頂点は、神秘家・哲人たちで様々な表現をされてきた。


例えば老荘の「道」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」「空」、禅の「無」などである。

 イスラムではスフラワルディーは「光」と呼び、イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。

 ここで云う「存在」とは存在者という意味ではなく、「宇宙に遍在し十方に貫流する形而上学的生命的エネルギー」のことを指すという。

 この宇宙に遍満する「生命的エネルギー」が自己限定、自己分節していくことによって、すべての存在世界が展開していくというのだ。

 従ってイブン・アラビーの「存在一性論」にあっては、例えば「ここに花がある」とは言わない。

「存在が花する」「ここで存在が花している」というような哲学的なメタ言語を使うことになる。

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     「存在がバラしている」

 田中さんであれば、「存在が田中さんしている」といった奇妙な日本語になる。

 もっと言うと、三角形の頂点から見ると、世界が全く違うものとして見え始めるのだ。

 「意識と本質」の井筒の言葉を借りるならば、・・「無」の全体がそのまま花となり鳥となる・・のだ。

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     マレーシアのモスクにて

 ちなみに井筒によると、イブン・アラビーなどのイスラムの大神秘家たちは次のような考え方を持っていたという。


「哲学の訓練を経ない神秘家になんていうものは酔っ払いにすぎないし、

他方、神秘主義的体験のない哲学者なんていうものは、

概念的にしかものを考えることのできない

明き盲みたいな合理主義者であって、

存在の真相などわかりっこない」

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2019年10月25日 (金)

意識と存在の構造モデル3・・無の関門を通る




 「神秘の夜」は、井筒俊彦の「意識と存在の構造モデル」にあっては、どうしても通らなければならない「無の関門」でもある。

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 彼の構造モデルにあっては、あらゆる神秘家や哲人は三角形のモデルの頂点を通らなければ、昼という現象を去って、「実在という夜」に推参することはできない。

 「夜の世界」では、昼間の五感を中心とした判断・推測は通用しない。

 むしろ、「昼の世界」の先入観をきれいに流し去って、一度、無になる必要がある。

 そして無になるだけでなく、その世界に超入して「神秘の夜の世界」を実際に旅する必要があるのだ。

 前にも触れたが、井筒俊彦や小林秀雄がドストエフスキーの世界に見ていたのは、この「夜の世界」における魂の復活である。

 一度、死んで甦る必要があるのだ。

 ドストエフスキーは、“癲癇”(てんかん)という切実な持病の体験によって、まさに「神秘の夜」を旅し、その「夜の国」「永遠の秩序」を垣間見ていた。

 


 ・・その発作が今まさに始まろうとする数秒間、彼はこの世ならぬ光景を覗き見た。

永遠性の直観、「永遠調和」の体験。

それはまさしく黙示録に「その時、もはや時間は無かるべし」と云われている歓喜と恐怖の数秒間だ。


それは来世の永遠性ではなくて、この現世に於ける永遠の生命なのだ。

人生にはある瞬間があって、その瞬間に到来すると時間がはたと停止して、そのまま永遠になるのだ。

これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう。

井筒俊彦『ロシア的人間』第13章「ドストエフスキー」より

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 この「永遠の今」の体験による「新しい人間」の誕生こそが、ドストエフスキーの一貫して追求したテーマであり、「神秘の夜の旅」の目的なのである。

 

 

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    ハイデルベルクの旅・・

2019年10月 1日 (火)

意識と存在の構造モデル2・・存在とはコトバである

 およそ哲学なるものは意識と存在の起源について、根源的に問いかけるものである。

 井筒俊彦が真言密教の僧侶たちを前に行った講演「言語哲学としての真言」では、その起源が見事に語られている。

 まさに前回紹介した「意識と存在の構造モデル」としての三角形の頂点たる一点が大日如来であり、この大光明たる法身からすべてのものが生み出されてくるのである。

 つまり、大日如来自身の説法、その自己分節こそがこの宇宙の実相だというのである。そして私たちの意識もその説法の中で生まれてくる・・。

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 そのサワリを少し紹介してみよう。

 この講演では、「存在とはコトバである」という命題が取り上げられるとともに、西欧の言語学はもとより、イスラームの文字神秘主義などから真言密教を照射して、「真言」を新たな言語哲学としてを現代に甦らすことに成功している。

 空海の「五大に皆響あり、十界に言語を具す」という言葉に象徴されるように、真言密教では仏の世界から地獄のどん底まであらゆる存在世界はコトバを語っているとする。

 つまりすべてが大日如来の説法であり、これを「法身説法」という。

 特にこの大日如来のコトバの開始点が「阿字」であり、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われている。

 井筒によると、異次元のコトバの極限状態においては

「シニフィエ、つまり意味が零度に近く希薄化し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音の方が、異常な力、宇宙的に巨大な力となって現れてきます。

これが、真言密教のコトバ構造におけるア音の原初的形態であります。

すなわち、この極限的境位では、大日如来のコトバはアという一点、つまりただひとつの絶対シニフィアンなのであります」云う。


 この絶対シニフィアンの発声とともに言葉が始まり、言葉が始まるまさにそのところに意識と存在の原点が置かれるのであります。

人がアと発声する、まだ特定の意味は全然考えていない。

しかし、自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。

ア声の発声を機として、自己分節の働きを起こした大日如来のコトバは、アからハに至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的なエネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ねていきます。

そして、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに響を喚び、名を喚び、物を生み、天地万物を生み出していきます。

「五大に響あり」と言われるように、それは地水火風空の五大悉くをあげての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界にわれわれが認識する一切の認識対象の悉くが、文字なのであります。

 こうして、全存在世界をコトバの世界とし、文字の世界、声と響の世界とする真言密教の世界観が成立します。

すなわち、イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッバーラの場合と同じく、真言密教においても、存在世界は根源的にエクリチュール空間であり、そのエリクチュール空間は、声鳴り響く空間なのであります。

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 ハイデルベルクにて真言について思索する

2019年9月29日 (日)

意識と存在の構造モデルについて・・井筒俊彦の三角形

 井筒俊彦が追求したテーマの一つが、イスラムの神秘家イブン・アラビーの言う神秘家かつ哲学者の道を極めることであった。

 すなわち宗教行などによって意識を変貌させて存在の根源に遡るとともに、その体験知に基づいた哲学を構築していった哲学者・神秘家たちの共通モデルを明らかにすること。

 その理想的モデルがイブン・アラビーなどのスーフィーたちであるとともに、東洋哲学の途轍もなく広い精神的鉱脈に実は一つの共通したパターンがあることを彼は明らかにしていった。

 詳しくは「イスラーム哲学の原像」という名著を参照いただきたいが、簡単に言うと、多くの哲人・神秘家に共通するのが、往相・還相の悟りへの道を歩むということである。

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 井筒はこの中で「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図を描いている。

 すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置き、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

 つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

 そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

 井筒俊彦は、この意識と存在の構造モデルについて、次のように明快に説いている。


 もちろんこの上昇過程と下降過程の段階は、意識の段階を表すと同時に、存在エネルギーの自己収斂と自己展開の道程をも表わします。

 

仏教的にいいますと、不覚から覚に入って、また覚から不覚に出ると申しますか。よく向上・向下などと申します。

 

向上門・却来門--つまり上に向かっていく道程と、そこから逆に引き返してくる道程--とも。

 

また掃蕩門・建立門などともいいます。

 

つまりきれいさっぱりいっさいを掃蕩し、無一物の境地に入ったうえで、改めて存在界をうち立てていくということです。

 

また、浄土真宗で往相・還相などと申します。

 

だいたいスーフィズムの上昇、下降にあたるとみてもまちがいなかろうと思います。

 

いずれの場合も日常的経験的意識から出発して、ついに意識のゼロ・ポイントに達し、そこからまた目覚めてしだいに経験的意識に戻ってくる。

 

それは神秘主義的意識の典型的な循環運動を意味するとともに、現象界という形で四方八方に広がっている存在のエネルギーがしだいに収斂して、存在的無に還帰しまして、それからまたしだいに末広がりの形で現象的事物に拡散していくという、存在の自己展開の運動を表わしております。

 

つまり意識と存在のピタリと一致した完全な二重構造であります。・・「イスラーム哲学の原像」

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 ハイデルベルクで「無の関門」を通る・・

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2019年9月14日 (土)

「新しい人間」の誕生・・ドストエフスキーの新生物語

ドストエフスキーの途方もない作品」(小林秀雄)に繰り返し描かれている「新しい人間」(井筒俊彦)の誕生・・。

 あの名作『罪と罰』も単なる犯罪を犯した青年ラスコーリニコフの「懺悔の物語」ではない。

 「如何に生きるべきか」という激しい問いかけに憑りつかれた青年が、「旧い人間」から「新しい人間」へと生まれ変わっていく「魂の更生の物語」なのである。

 私は彼がシベリアの地でソーニャとともに丸太に腰掛け、大平原を見渡すシーンが大好きだ。

 現象的には犯罪という罪を罰せられて、シベリアに流された彼だが、その魂の奥底では復活の喜びがあふれ、二人による「新しい物語」が始まることを予感させる。

 まさに「旧い人」「新しい人間」に生まれ変わろうとしているのである。

 それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝6時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。

そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。

・・ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺め始めた。

高い岸からは広々とした周囲の眺望がひらけた。遠い向うの岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。

そこには日光の漲った目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。

そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。

そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。

ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、眼も離さずにじっとみつめていた。

彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移って行った。彼はなんにも考えなかったが、何ともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった。

・・『罪と罰』エピローグ

 
 
そこに突然、ソーニャが現れ、彼と並んで丸太に腰掛ける。彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめる。

 彼らは二人とも蒼白くやせていたが、「この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向う近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった」とドストエフスキーは書いている。

 おそらくドストエフスキーのメインテーマとも言うべき、「新しい人間」の誕生という「人間実存の根源的変貌」について、最も深く考察したのは小林秀雄と井筒俊彦ではなかったか。

 ちなみに若松英輔さんも「霊界を生きた作家とドストエフスキーを認識する点で、小林秀雄と井筒俊彦は深く交差する」・・『叡知の哲学』113頁と指摘しておられる。

Sis
「白痴」のムイシュキンは、幼時から重度の癲
癇でスイスで療養していたという。
・・レマン湖にて

2019年8月30日 (金)

「プラス1の法則」・・総集編

「プラス1の法則」・・総集編

幸福になるのに時間はいらない。

今すぐに幸福になる方法がある。

たとえ今の境遇が悪いことだらけでも

真っ暗闇であっても

たった一つでも、光明面があることを

信じて

観つけて

そして言葉に出せば

不思議にその境遇が光に変わる。

私自身のことでいえば、

かつて高校生の時、絶望のどん底にいたときに

ある方にかけられた一言で救われたことがある。

君は一見、不良に見えるけど、本当は物事を深く思索している素晴らしい高校生だ・・

10あるうちの9が悪いことであっても、

そのうちの一つが善いことであることに

気づいて感謝すれば

残りの9も光に変わるのである。

この法則のことを私は、「プラス1の法則」と呼びたい。

人生はまだ捨てたもんじゃない。

「プラス1」を見つけることさえできれば・・。

Rimg0082   緑の多いフランクフルトにて

★「プラス1の法則」・・アーカイブ編★

2019年8月27日 (火)

小林秀雄のプラトン論・・人生の大事は忽念と悟ること

 



プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。

彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬のように、いつも同じ顔をして黙っている。

人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。

だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧りの知識を振り廻して得意にもなるものである。

プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せておけばよい。

哲学者には、もっと大きな仕事がある。

人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡(うち)に、忽然(こつぜん)と悟るていのものであるからたやすくは言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物というような人に誤解されやすいものにしておくというような事は、真っ平である。・・

 従って彼によれば、ソクラテスがやったように、生きた人間が出会って、互いに全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです。

 ・・「喋ることと書くこと」

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 この小林秀雄のプラトン論は、その後、『本居宣長』を通して、独自な言語論へと発展していくのであるが、まさしく小林のやろうとしたことは、生きた人間が出会って、心を開いて対話するということにより、本物の智慧を得ることであった。

 彼の「からみ」の話はあまりにも有名であるが、彼にしてみれば全人格を賭けて問答をしていたのにすぎない。

 目的は真智を得ることであって、「からみ」は相手の狭い個我はもとより、自身の我を否定し去り、「智慧の海」へと向かうことに他ならなかった。

 小林にとって対話とは、ソクラテスがそうであったように、自他共により高次な「智慧の海」へと航海して、無私を得る道だったのではないか。

 単なる弁論術や政治家の説得しようがための演説では、「智慧の海」に至ることはできないのである。

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2019年7月23日 (火)

宇宙は一つで共鳴している・・ラズロ博士のパラダイムシフト

ヨーロッパの知の巨人であるアーヴィン・ラズロ博士によると、この宇宙は一つであり、全てが共鳴しているという。

 音楽家でもあるラズロ博士は言う。

 音楽に同調、一貫性、共鳴という三つの調和的属性があるように、この宇宙には宇宙の言語なるものがあり、人間を含むあらゆるものは、一貫性のあるエネルギー場・情報場の中に生きている・・と。

 この宇宙のエネルギー場に私たちの「精神のエネルギー」が同調、共鳴したときに、私たちは宇宙と一体になって、驚くべき能力を発揮することもできるようになる。

 このことを空海は「即身成仏」と呼んだのではないか。

 私たちの肉眼には個々分断して見える物質の世界は、単に表面の世界であり、本当はすべてが一つにつながっていて、丁度、音楽の楽器のように共鳴しているというのである。

 このワンネスの世界をラズロ博士は「全一世界」(ホールワールド)とも呼ぶ。

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 全ては「一」であり、繋がり、共鳴し、共に進化しようとしている。

 従って、私たちはどこにいようとも、いつであろうとも、この「全一世界」に触れて、気づきという最高の宝物を手にすることができる。

 例えば日本の宗教家には、鳥や虫の鳴き声を聞いて悟ったという高僧もいる。

 一休は明け方のカラスの鳴き声で悟り、白隠はコオロギの鳴き声で開眼したと言われている。

 また観世音菩薩の名も、この宇宙が様々な音の響きで共鳴していることを現しているのではないか。

 畢竟、私の住む世界とは、自分の鳴り響かせている楽器の音=「精神のエネルギー」に共振・共鳴している音を引きつけたものだとも言える。

 もし、自分の境遇を変えたかったら、まず自身の響かせている音を変えることである。

 境遇が苛烈であったならば、もっと自分の鳴り響かせている言葉の音を優しく、愛深いものにすればよいのだ。

 ちなみにラズロ博士が最近とみに発信しているメッセージが「ワールド・シフト」である。

私たちに必要なのは新しい考え方です。

アインシュタインが言っていたように、問題が起きたときと同じ思考のままでは、真の問題解決はできない。

もし作り上げてきた世界がもはや通用しなくなってきているのだとしたら、生活と文明のため新たなパラダイムにシフトしなければならない。

今までと同じ考え方のままでは、私たちは向上ではなく、下降に向かって大きく踏み出すことになります。

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2019年6月14日 (金)

マイナスをプラスにする魔法

マイナスが大きいほどプラスも大きい・・アラン・コーエンの啓示

アラン・コーエンによると、「すべてのマイナスは、プラスの半分」であり、マイナス(-)に縦線(|)を加えると、プラス(+)になる。

ですから一見マイナスと思える出来事も、そこから得た気づきが加わると、プラスに働きます。

マイナスは、縦線、つまり気づきへと至る垂直の動きを待っているのです。

 

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 このアランの言葉は、「大震災のメッセージ」と題した本の中で出てくるもので、彼は「日本人を元気づけ、癒したい。そう思いながら、震災直後の東京でこの本を書きました」という。

 アランが言うように、すべてのマイナスと見える出来事は、「縦線、つまり気づきへと至る垂直の動きを待っている」のである。

 換言すると、マイナスが大きいほど、気づきもプラスも大きくなる。

 東日本大震災という大きなマイナスも「大きな気づき」を招請しているとも云える。

 実は宝物は自分の目の前にあるのだ。

 常に当たりは目の前にある。

 これを「当たり前」とも言う。

 しかし、人は目の前にある「当たり」には目もくれずに、いつも未来のある地点や他の場所に宝物を探してきた。

 このシリーズでは、目の前にあるマイナスをもプラスにする魔法について紹介している。

マイナスをプラスにする魔法3・・生き方を変えるチャンス

マイナスをプラスにする魔法4・・他の視点を得る

マイナスをプラスにする魔法5・・「リフレーミング」

         フランクフルトの空・・

2019年6月 7日 (金)

「笑い」は本当の自分に還る最高の方法・・

 ダニエル・ピンクの『ハイコンセプト』によると、約2500の「笑いクラブ」が世界各地で定期的に開かれているという。

 それらの多くがインドにあり、およそ100がムンバイに、ハイテク都市バンガロールにはさらに多くのクラブがある。

 イギリス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、カナダなど、欧米諸国でも次々と誕生しているし、アメリカ国内には数百のクラブが存在する。

 このようなクラブが最も急激に増えている場所は、職場である。

 このクラブを創案したのは、マダン・カタリアというインド・ムンバイに住む医師である。

 彼は「笑い」が善玉ウイルスと同じような働きをすると信じており、人間、地域、あるいは国家の間にさえ影響を及ぼすと信じている。

 このクラブでは、少人数のグループで毎朝早い時間に公園や村の広場やショッピングセンターなどに集まり、半時間ほど笑って過ごす。

 カタリアの「笑い」が独創的なのは、ジョークなどによる“条件付きの笑い”から“本来の笑い”を取り戻したことにある。

「何かに頼らなければ笑えないのなら、その笑いはあなた自身のものとは言えない。

それは条件つきの笑いなんだ。

だが、『笑いクラブ』における笑いの源は体の外にではなく、内にあるんだ

 彼は「笑いヨガ」というエクササイズで、大人の「条件つき幸福」を子どもの「無条件の喜び」に変えることかできるという。

 私たちは本当は面白いから笑うのではなく、もともと自分の中に内在する歓喜を爆発させる機会を待っているのかもしれない。

 この喜びは快・不快、幸福・不幸といった二元性を超えたものであり、神秘家たちが「至福」と呼んでいるものなのである。

 私たちの源には、驚くべき「歓喜の海」があり、このただ一つの海から宇宙のすべてのものは生まれてきたのではないだろうか。

 実は愛さえもこの「歓喜の海」から生まれてきたのであり、この「ジョイ」をシェアしたい思いが愛になり、さらに天地万物を創造するアイデアになり、宇宙になり、そして私たち生命として花開いているのだ。

 

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    フランクフルトにて

«一枚の葉っぱに全宇宙を見る・・ドストエフスキーの幸福論

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