「スーパーセルフ」の開発が人類を救済する・・

 もし宇宙人なるものがいて、地球人の改造計画をするならば、どこから手をつけるだろうか。

 ある宇宙人は地球人の持っている自分像=セルフイメージの改革から手をつけるかもしれない。

Amr12060700140000p1               「火星年代記」などの名作で知られる
               SFの巨人、レイ・ブラッドベリ

 何故なら、現在の地球上の様々な問題の原因は、結局のところ、そのセルフイメージがあまりに狭く、低次元であるところにあるからだ。

 もしセルフが肉体としての自分というような極めて限定されたものではなく、宇宙に遍満するところのグレートセルフ、宇宙大生命だとしたら、その行い、習慣、ライフスタイルそのものが劇的に変わってくるに違いない。

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 何しろ、自分の肉体の周囲にあるあらゆる人々、草花、自然、海、道路、物・・など森羅万象が他ならぬ自分自身であり、どれもが尊い大生命の兄弟であり、礼拝せずにはおれない、かけがえのない存在になるのだ・・。

 よく言う「利他」という言葉も、このようなセルフイメージにあっては意味をなさない。むしろここにあっては、自分を礼拝し、大切にすることがそのまま「利他行」になるのである。

 ちなみに道元の言った「他己」とは、このような「スーパーセルフ」のことを指しているのだろう。

・・唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

・・一遍上人

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 この「スーパーセルフ」=「光」なるものは、私たちの中にいつもある。 

 21世紀の人類が行うべきは、この内なる「スーパーセルフ」、つまり無限の資源の発掘である。

 一体、吾々の持つ力が如何なるものなのか、測ったものは誰もいない。

 何故なら、私たちの持つ潜在能力はおそらく無限であり、無尽蔵だからだ。

 あのイチローの見せるバッティング技術は、常に進化しており、彼は50歳まで現役でいる夢を持っているそうだ。

 彼はいわゆる人類の引いた常識という限定した線を書き換えることに喜びを見出しているようだ。

 が、これはイチローのような天才たちに限られた話ではない。

 私たちも今日一日、自分の持つ力(光)を120%出し切れば、確実に能力はアップするはずだ。

 何故なら80%しか出さない人は、いつも力を出ししぶることから、無尽蔵の能力の壺の蓋を開けることが出来ない。

 天才とは、この120%の可能性にかける人達のことを言うのである。


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     フランクフルトの朝

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成功とは円熟すること・・小林秀雄の成功哲学

成功とは、遂行された計画ではない。

何かが熟して実を結ぶ事だ。

其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。

何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。(「還暦」)

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天才的数学者、岡潔は、数学者は職業にたとえるならば百姓に似ているとと言ったという。

 アイデアという種を大地にまいて、丹念に手入れをする中で実るのを待ち、収穫をするからである。

 小林秀雄がここで言っている境地も、ある着想なるものが熟して実を結ぶことの大切さである。

 おそらく今の成功哲学がどこかに置き忘れているのが、この円熟の思想である。

 私たちは何かを計画し、遂行することによって、成功するのではない。

 あるテーマという種を丹念に育て、それが自ずと熟してくることによって成功するのである。

 それは小林が取り上げたゴッホ、ドストエフスキー、本居宣長などの天才論を見ればよくわかる。

 最初にある直感を得ながらも、小林は実に丹念に天才達と付き合い、熟するのを待つ。ただひたすら待つのである。

 この時間をかけて「待つ」という営みこそが、小林の批評の神髄である。

 みんなどうして、ファーストフードみたいに作品を料理したがるのか。

 早く料理しようとすればするほど、作品の命はすりぬけていってしまうではないか・・。

そんな小林のため息が聞こえて来るのは私だけであろうか。

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「惑星意識」への進化・・意識革命を起こす本

  地球人にパラダイムシフトを起こして意識革命を起こす三冊を紹介しよう。 

いずれも「意識の拡大」、物の見方の革命を促している。

 まずは「地球環境問題を仏教に問う 温暖化地獄を仏教・密教は救えるか」で、山本良一竹村牧男, ,  松長 有慶の三氏という 環境学者×宗教学者×僧侶の対談本である。

 宗教、仏教、そして真言密教は地球環境のために何ができるのだろう・・大きな問いかけに三人の識者がそれぞれの思いをぶつけており、哲学書としても一級品と見た。

 そして地球環境問題を解決する上で、今後避けて通れないのは「個人のライフスタイルの変革」であり、そのためのヒントを、仏教、密教の教義の中に探っていくのだが、環境問題と言う21世紀最大の問題に、仏教の教義、組織形態、ライフスタイルなどが改めて照らし出されてその存在意義と新しい可能性が見えてくるところが興味深い。

 思うに環境問題は、科学と宗教の垣根を超えて、人類の意識レベルを「惑星意識」にしていく可能性を秘めている。

 特に弘法大師空海の説いた「即身成仏」というコトバが、環境問題によって新たな意味と可能性をもって蘇りつつある点は注目すべきである。

 大日如来と一つになることはどういうことなのか。

 そこに咲いている小さな草花も大日如来の分身であり、自分自身ということにはなるまいか。

 とすれば、人類は自分自身でもある地球の自然を自ら破壊していることになる。

 このような「意識の拡大」なしに環境問題の根本的な解決にはならないのではないか。

 ちなみに現在の環境問題の日本のオピニオンリーダーである山本良一氏は、真言密教のマンダラ図に触発されて「環境マンダラ」なるものを考案している。
      

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 二冊目は本ブログでも繰り返し紹介してきた小林秀雄と井筒俊彦という現代日本を代表する知性、哲学者の共通項に迫った若松英輔さんの叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦である。

この本の帯にある・・

「哲学者は詩人たり得るか? 

日本古典の思想性を「詩」の言葉で論じた小林秀雄――。

古今・新古今の歌に日本の哲学を見出した井筒俊彦――。

二人の巨人を交差させ、
詩と哲学の不可分性に光をあてる、清廉な一冊。 」

 という言葉にすべてが言い尽くされている。

 二人の哲学的巨人を交差させ、詩と哲学の不可分性に光をあてる時に見えてくる世界・・。

 このブログでも繰り返し紹介しているが、この二人の巨人が追求したのは、存在の実相に迫り、実際に体験するとともに、それを己の文体で表現するという営みである。

 イスラムの神秘哲学者が追求した「神秘家かつ哲学者」の道をこの二人ほど極めた人はいないように思う。

 その取り扱った対象は違っても、その対象に対する迫り方はあまりにも酷似している。

 例えばギリシャの哲人たちに、二人は「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。

 この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

 観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

 神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

 アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。

観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。

それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。

ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

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 三冊目はあなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。 1秒でこの世界が変わる70の答え」。

 ひすいこたろうさんの本はほとんど読んできたが、この書はひすいさん流、「物の見方ガイドブック」の決定版と見た。

 とにかく、爆笑しながら、自分の「物の見方」が柔軟になっていくのがわかるのである。

世界は白いキャンバスなんです。

だからこそ、みんなが喜びを感じられるように、楽しくなるように、世界を自由に解釈すればいいんです。

・・どう解釈するか、認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。

あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。

つまりあなたこそ、世界の救世主だったのです。

だから、神社のご神体は鏡なんです。

神様に拝んでいるとき、鏡に写っているのは拝んでいるあなた自身です。

あなたが変われば、

鏡に映るこの世界も一秒で変化します。

 

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リルケ、小林秀雄の至高体験

 

 若松英輔さんの『神秘の夜の旅』に登場する越知保夫をはじめ、小林秀雄、井筒俊彦、マルセル、リルケ、ドストエフスキーなどに共通するのは、目に見えない“至高なる存在”を信じていたことだろう。らは信じていただけでなく、その臨在をまざまざと感じていた。

 それは自分を超えた存在を体験する「至高体験」(マズロ)であったとも言えるだろう。

 そして詩人たちはその体験から何物かを語り始める“語り部”となるのである。

 若松さんの霊性にあふれた言葉を引用してみよう。

詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。

むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。

彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

「過去の日の大浪」が意味するのは死者である。

読み進めれば、示唆というにはあまりに直接的な経験が、リルケにあったことがわかるだろう。(『神秘の夜の旅』135~136頁)

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リルケだけではない。小林秀雄にも、井筒俊彦にも、マルセルにも死者から「委託」された「直接的な経験」、つまり「至高体験」があったのである。

 小林秀雄の批評に至っては、彼が天才たちとの霊と直接会話しながら書いたのではないか、と思われる表現が随所に見られる。

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 その意味では、彼の批評とは死者を呼び出し、彼らと対話する「祈り」でもあったのではないか。

 彼はひたすら無私になって、天才たちからの「呼びかけ」を待っているのである。

 若松さんの引用しているリルケの詩を紹介しよう。

風に似てふきわたりくる声を聴け、

静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。

あれこそあの若い死者たちから来るおまへの呼びかけだ。

かつておまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに

かれらの運命はしずかにおまえに話しかけたではないか。

また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように

死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

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   ハイデルベルクの古城跡にて

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誰にも「全実在」は与えられている・・小林秀雄

 小林秀雄は「私の人生観」という戦後間もなく行った名講演で「哲学は一つのシステムでたりるのではないか」と提案している。

 これは、21世紀、惑星的な知性の出現と真の叡知にあふれた哲学を構築していくにあたって、多くの示唆を与えてくれているのではないだろうか。

 この小林の提案は「知覚の拡大」に伴う「実在」中心主義と呼んでもいいし、イブン・アラビーの「存在一性論」とも相通じるものがある。

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 小林秀雄が言うように「全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている」(「私の人生観」参照)。

「私たちの命は、実在の真っ只中にあって生きている」のだが、そのような「豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要」である。

 何故なら、普通私たちは、日常生活の要求に応じて、便宜上、この経験を極度に制限する必要があるからだ。つまり、「見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない」。 

 つまり、可能的行為の図式が上手に出来上がるという事が、知覚が明瞭化するという事である。

こういう図式の制限から解放されようと、
ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はあるまい。

彼の努力は、全実在が与えられている本源の経験の回復にあるので、そこで解放される知覚が、常識から判断すれば、一見夢幻の様な姿をとるのも致し方がない。

ベルグソンは、そういう考えから、拡大された知覚は、知覚と呼ぶより寧ろVISIONと呼ぶべきものだと言うのです。


・・小林秀雄「私の人生観」

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 小林が言うように、私たち一人ひとりには「全実在」がそれぞれ与えられている。

 ところが、この「本源の経験」なるものが日常生活の便宜性にかまけて、通常は極めて矮小化され、静止化されて体験されている。

 この矮小化という網を一度、捨てて虚心に「実在」に向かうとき、私たちは思わぬ光景を目撃することができる。

 画家は、小林が言うように「見る」という全身心を賭した行為を通して「実在」に到ろうとするのだ。

 従って、優れた芸術家たちは、ベルクソンが哲学者達に望んだように、「唯一の美のシステムの完成に真に協力している」ことになる。

 そのめいめいがその個性を尽くして同じ目的を貫いており、「梅原という画家のVISIONと安井という画家のVISIONは、全く異なるのであるが、互に抵触するという様な事は決してなく、同じ実在を目指す。かような画家のVISIONの力は、見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出すのである」。

 ちなみにジャコメッティという画家は森林に入ったとき、木々の方から見られているという不思議な感覚に襲われ、その感覚から脱っするために絵を描いていたという。

 つまり自分という主体から木々という対象に向かうのではなく、木々という「実在」から呼びかけるモノがあるというのだ。

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  ドイツ・ハイデルベルクでの思索


 このような「実在体験」をマズローは「至高体験」とも呼び、マルセルは「現存」とも呼称したが、芸術家だけでなく、私たちにも「全実在」は平等に与えられているのだから、その実相に推参することはできるはずなのだ。

 小林秀雄があれだけサクラに入れ込んだのも、サクラそのもの=「実在」に魅入られた体験があったからに違いない。

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 誰にも「全実在」は与えられている・・

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井筒俊彦と小林秀雄の共通点・・対話による叡智の発掘

 井筒俊彦が「東洋哲学の共時的構造化」を図るために行なった方法は、これから惑星的かつ宇宙的なスケールを持つ哲学を創造する上において、大変参考になる。

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 なぜなら、過去の諸哲学や神秘家たちの歩んだそれぞれの道を、一度、その時間的空間的束縛から解き放って、「それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的に創り出す」ことによって、それらに共通する「基本的思想パターン」や悟りに至るモデルを明らかにするのはもとより、その空間において自ずから東西の哲人たちの「対話」が始まり、新しい価値を生み出すことができるかもしれないからだ。

 日本の神道で云えば、万の神々が集って一堂に会して話し合うことにより、新たな価値を生み出そうとする「ムスビ」(産霊)の働き、つまりより高次元の創造活動が可能になるのである。

 井筒が広大な東洋哲学(イスラム、ユダヤ哲学なども含む)を有機的に包含するだけでなく、その哲学の持つ意味を現代思想の中で甦らせ、新たな現代的価値を与えたように、21世紀の初頭、哲学するための惑星的なアゴラ=広場を創設して、時間・空間を超えた哲人たちの「対話」を人為的に行なうことは決して夢物語ではない。

 プラトンがソクラテスを通して描いたのも、この「対話」(dialogue)による叡知=無知の知発見ではなかったか。

 この意味では、「叡知の哲学」とは、「対話の哲学」でもあるのである。

 この「対話」について、忘れられない小林秀雄の肉声がある。「本居宣長」を完成した後に行った講演での「学生たちとの対話」の中で確かに小林は次のように言った。

心を開いて対話をすれば、生きた智慧が飛び交う・・

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「対話」は、違う価値観・歴史を持った者同士が同じ土俵に乗って行う一種の共同創造である。

 しかし、この創造が真に独創的になるためには、ある条件が必要だ。

 例えば相手をやつけるための雄弁術では決して「叡知」にたどり着くことはできない。

 その「叡知」を修得するためには、小林秀雄の「無私の精神」という言葉があるように、一度、自分の持つ価値観を消して、相手をひたすらリスペクト(尊重)する心を持つ必要がある。

 つまり、このリスペクト精神を互いが持つときに、そこに自ずから高次元の「生きた智慧」(叡知)が飛び交うことになるのである。

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  フランクフルトで「対話」について考える・・

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小林秀雄の鉄斎論・・自然と人間が応和する喜び

鑑賞という事は、一見行為を拒絶した事の様に考えられるが、実はそうではないので、鑑賞とは模倣という行為の意識化し純化したものなのである。

救世観音の美しさは、僕等の悟性という様な抽象的なものを救うのではない、僕等の心も身体も救うのだ。

僕等は、その美しさを観察するのではない、わがものとするのである。

そこに推参しようとする能力によって、つまり模倣という行いによって。

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      ゴッホの複製画の前で

 これは、「伝統」という小林秀雄のエッセーからの引用だが、小林秀雄にとって絵画や美術品などの「鑑賞」という行為がどのようなものであったか、よく解る文章である。

 彼のような徹底した「鑑賞」にあっては、自分と作品の境界はなくなり、観察するのではなく、まさに一体になって「わがものにする」ことに力点が置かれている。

 例えば、小林は富岡鉄斎を四日間ぶっ通しで、朝から晩まで250余の作品を見続けたというから尋常ではない、そこには何か魔的なものすら感じられる。彼の鉄斎論を見てみよう

 日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なしに、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対することは出来なかったのである。

 

彼はこの態度を率直に表現した。

 

讃嘆の長い歴史を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未踏の道を、彼は発見した様に思われる。

 

自然と人間とが応和する喜びである。

 

この思想は古い。

 

嘗て宋の優れた画人等の心で、この思想は既に成熟し切っていた。

鉄斎は、独特な手法で、これを再生させた。

彼は、生涯この喜びを追い、喜びは彼の欲するままに深まった様である。

悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、そようなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた。

「鉄斎Ⅱ」

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         仙縁奇遇図 

 

  鉄斎の喜びをわがものにした小林の批評は「鑑賞道」とでも呼びたい、厳しくも喜びにあふれた行から生まれてきたのであり、頭の中だけで巧んだものは一つもないのだ。

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一瞬で世界を変える方法・・総集編

一瞬で世界を変える方法・・

それは.....

今、見ているもの、出合っているものの

本物を観るということです。

私たちが間断なく出合っている人、物、事、自然には

それぞれに見せる顔というものがあります。

ただ、そこには本物と仮のお面を被っている偽物の二つがあるのです。

例えば、この地球上で見せている生命の姿も仮のものであり、本来の生命の本質はほんの少ししか現れていないのではないか、と観るのです。

私たちの命は地球上の重力下という特殊な環境のもと、様々な種を生み出し、この地球上に満ちあふれているわけですが、それでも生命の持つ無限性から観るならばまだまだなのです。

この命の持つ可能性、無限性に目を向けて行動するとき、世界は変わります。

なぜなら、今目にしている苦しみも問題も生命の無限性がこれから現れるためのプロセスにすぎず、本物ではないからです。

例えばハイポニカという農法を編み出した野澤さんという人をご存じでしょうか。

以前の文章から引用してみましょう。

野澤重雄氏ハイポニカ(水気耕法)によるトマト、キュウリ、サトウキビなどの栽培は示唆にとんでいる。

一株のトマトから一万三千個ものトマトが実るという驚嘆すべき栽培法の基本は、野澤氏によると本来の生命力は、現在の地球自然の状態では発揮されておらず、その制限している原因である土という塊から解き放ち、養液を流速を与えて循環させている水の環境に置いてやると
本来の驚くべき生命力が現われてくるというのだ。

同氏によると生命の本質とは「生長・発展する力」であり、「変化し、動いている」ものである。


この本質を引出す環境を設定すると生命は無限に生長する右上がりのベクトルをとるという。生命は変化、動きを通してその本質(生長・発展する力)を露にしていく。

 言わば、
地球上における生命は物質という強い抵抗に合いながら顕現している「生命の見かけの現象」であり、ベルクソンの言うエネルギーの蓄積と爆発という「生命の本質」をおおい隠しているのである。

Bergson

 生命の哲学者、ベルクソン

 この生命の本来持つ驚くべき「生長・発展する力」を信じて見守る。

 そして伸びる兆しが見えれば全身全霊で誉めて、感謝すること。

 このことができるようになれば、間違いなく世界は変わります。

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ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

  これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

 本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

 特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

 この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

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小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

詳しく紹介している.

 ベルクソンの論点は大きく三つある。

① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

 ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

 ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

 たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

 また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

 ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

 溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

 ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

 ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

 ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

 同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

 ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
 あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
 すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

 ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

 なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

 このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

 結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

 わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

Bergson

 それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

 ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

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「大企業を作る方程式」・・ジェームス・スキナー

 ジェームス・スキナーによると、「無限大の天地宇宙にとっては、大きいも小さいもないものだ」という。

 従って、ビジネスを構築していく上でも、どんなに大きなことを望んでも遠慮はいらない。

 むしろ、その目的やアイディアが大きければ大きいほど、ビジネスの規模も大きくなってくる。

「大きな夢を見て、大きく望み、大きく希望する。小さい夢や希望と同じように、確実にそれが実現されると考えて良い」というのだ。

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 なぜなら、普遍の物質は無限にあり、「無限の可能性の場」において思いの振動によって、その物質は制限なくさまざまな形をとるからだ。

 ちなみにジェームスの説く「大企業を作る方程式」は、下記の七つの要素から構成される。

        1. 大きな目標
        2. 大きなアイディア
        3. 大きな人
        4. 大きな資本
        5. 大きな提携先
        6. 大きな流通
        7. 大きな社会貢献

 大きな会社は、大きな目的、大きなアイディアから出る。

 ジェームスの言うように、大勢の人を助けるようなアイディアでスタートして、人の本当のニーズに応えていれば、会社はどの大きさにもなるのだ。

 例えば、これからの時代は、宇宙を相手にしたビジネスや能力開発などが人類のニーズとして出てくるだろう。

 21世紀は、おそらく宇宙大の目的、宇宙大のアイディア、宇宙大の発想、宇宙大の哲学などが想像もつかないビッグ・ビジネスを産んでいくに違いない。

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 宇宙大の発想力が求められてくる 

 

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魂の進化の法則・・

 ベルクソンが言う「知ラレザル大陸」とは、「死後の世界」と言ってもいいし、未だ発見されていない「宇宙の法則」とも呼んでもいいだろう。ベルクソンは次のように言う。 

 心霊学が確実なケースとして提出しているもののうち、ほんの一部しか受け容れなくても、心霊学がやっとその探索の緒についたばかりのこの「知ラレザル大陸」の広漠を窺うには充分な分量が残る。

この未知の世界からの微光がわれわれへまで届いて、この肉の目に見えたとしよう。

--この場合、ただ目に見え、手で触れられるもののみを、存在するものと考えならわしてきた人類に起こる変化は、いかばかりであろう。

・・「道徳と宗教の二つの源泉」

 この「知ラレザル大陸」を探索する上で、ガイドブックになるのが前回も紹介したラズロの著書『コスモス』である。

 ここで強調されているのは、この宇宙には実は驚くべき一貫性があるのではないか、ということである。

 すなわち宇宙に存在するすべてのもの(太陽、月、星、地球、生物、分子、原子、量子・・)はお互いにつながっており、しかも宇宙には進化するための一貫性が、あまねく存在する、というのである。

 そして『コスモス』によると、私たち人類の使命はコスモスの進化を促すことであという。

 私たちは全一世界(ホールワールド)の一部です。創造されるものであり、みんなでともに創造していくものであります。

私たちは全一世界の組織と秩序に加わり、そこにもともと備わっていながら絶えず蓄積していく知性に触れて、その意識の成長に貢献するのです。

 この宇宙がただ一つの存在「サムシンググレート」から生まれてきたと仮定するならば、全てのものはつながっていて、しかも「進化」という一貫性があまねく貫いているということは十分に考えられることである。

 この世界を深く観察するならば、まるですべてのものがともに廻りながら、踊りながら螺旋階段を上っているようにも見える。

 私たちが目には見えないマインドを通して、自分の周囲に家族、同僚、物、出来事、運命などを心で引きつけているというのも、実はこの一貫性、つまり法則が宇宙を貫いているからではないだろうか。

 心霊学の説くところによれば、私たちはまるで鏡のように現在の魂の発達段階に合わせた人・事・物を引き寄せており、これも互いが学び合って己を磨き、さらに次のステージに立つためであるという。

 このいわば「魂の進化の法則」が私たち人間だけでなく、宇宙のすべてに遍く貫いているということを「新しい文明」では認めることになっていくであろう。

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タモリの天才・・これでいいのだ・・

 もう大部前の話になるが、赤塚不二雄の葬儀におけるタモリの弔辞には驚いた。

 何でも白紙で彼は弔辞を読んだそうだ。

 それはともかく、弔辞から伺える赤塚さんの眼力とその生き方には、改めて感動した。

 まだ無名のタモリの天才に気づいた「眼力」とそれを世に出したところの「無償の愛」。

 何より私の心を動かしたのは次の一節だった。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。

それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。

この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。

すなわち『これでいいのだ』と。

 ・・平成20年8月7日、森田一義

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 どんな出来事も「これでいいのだ」と一度、肯定できれば善き事に変わるのではないだろうか。

 なぜなら、どんなに悲惨に思える出来事も、その背後には「神の栄光」が隠れているからだ。その裂け目からその光tが現れようとしているからだ。

  前に紹介した「黄金の仏陀像」の話を思い出そう。

 一見不都合に思える出来事とは、「黄金の仏陀像」を隠していたコンクリートが剥がれている現象に過ぎない。

 その悲惨な現象の自壊のプロセスを通して「黄金の仏陀像」という本物が現れようとしているのだ。

 私も赤塚さんに倣って云おう。

これでいいのだ。

全てはうまくいっている。

全ては魂が生長するための糧である、と。

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ドストエフスキーの創造した天使・・アリョーシャの復活の体験

 井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

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 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

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 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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「より高い次元での統合」は可能か・・井筒俊彦の啓示

井筒俊彦の言う種々の対立を超えた「より高い次元での統合」は如何にしたら可能なのか。

 そのために井筒が行った方法とは、「西洋と東洋の深層における対決」「対話」というものであった。(『意味の深みへ』の「人間存在の現代的状況と東洋哲学」参照)

 井筒によると、「人類文化をある意味で二分する東洋と西洋の文化を、今までよりもっと根源的な形で、より深いレベルで、対決させ、両者の高次の統合の可能性を、あらためて考え直してみることが必要になってくる」と云うのである。

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 それでは、東洋の深層における「世界像」とは何か。

 この世界像の最も顕著な特徴は、第一に意識と物質とが峻別されることなく、むしろ逆に両者が互いに浸透し合うような流動性を示すこと、次に、そこではいわゆる事物が存在者ではなくて、むしろそれぞれ一つのダイナミックな存在的「出来事」であること。

 結局、全体としての世界は、こういう数限りない存在的「出来事」の相関的、相互依存的、相互浸透的な編目構造の不断に繰り拡げられ、畳みこまれる流動的プロセスとして現われるのでありまして、要するに、それが世界と呼ばれるものの真相である、ということになります。

 一方、西洋における深層にも、現代自然科学の、まったく新しい存在観、存在感覚に裏づけられたまったく新しい「世界像」があり、そこでもまた、物質と意識の本質的峻別は無力化されてしまう。

元来、物質と意識とを矛盾的対立関係におくのは、ニュートン力学のパラダイム、あるいはデカルト的二元論に基く見方でありまして、このような見方をするかぎり、ものの本源的透明性とか、ものとものとの相互浸透などということは考えられません。

しかし、皆様もご承知の通り、現代物理学では、この旧来のパラダイムは既に新しいパラダイムに置き換えられ、デカルト的な物と心の二元論は否定されつつあります。

自然科学のこの新しいパラダイムが、いわゆる「事物」の存在論的構造そのものに意識の積極参加を認め、それによって事物の実体的凝固性を「溶解」し流動化するような性格のものであることが注目されております。

まり、今までいわば固い凝結性において考えられていた物質的世界が、意識の内面からの参与によって、限りなく柔軟で、常に変転する「出来事」の相互連関の複雑微妙な創造的プロセスとして見られるようになってきた、ということであります。

1 賢明なる読者は気づかれたように、現代の自然科学的パラダイムに基づくこの西洋的世界像は、伝統的な東洋哲学の世界像に酷似するところがあり、西洋の物理学者の中にもそのことに気づいて華厳や禅などの世界観を積極的に取り入れようとしている人もいる。

 つまり、「東西の文化的ディアローグ(対話)はその深層においては既に始まっている」というのが、井筒の強調したいところなのである。

 こうしてそれぞれ独自の強力な創造性を備えたこれら二つの「文化的枠組み」が、現代という歴史の時点で、ぶつかり合い、対話し合う、そのドラマティックな展開のうちに、井筒は「より高い次元での統合」を見いだそうとするのである。

 その意味では人間関係でもあるように、「ぶつかり合う」ことも決して悪いことではない。

 その衝突から対話が生まれてくるならば、より高次元の視点に立って自分と他者を眺めるという気づきと創造的進化が生まれる可能性も内包しているのである。

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  衝突から対話へ・・人類はより高次元
  の立場に立とうとしている。
  (ハイデルベルクにて)

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億万長者になる質問とは・・

 ジェームス・スキナーにとって、お金とは「社会のために作り出した価値を情報化したもの」だという。

 そして・・その価値は、具体的には人や社会に役立つアイディア=情報として広まっていくのである。

 しかもその「アイディアはただ。無料で手に入る富なのである」。

 つまり、富はアイディアという価値からくるのであり、アイディアは人のニーズからくるものなのである。ジェームスはこう読者に熱く語りかける。

想像力を発揮し、思いを暴走させてください。

自分の今不満足に思っているものは何か。

周囲の人たちが不満足に思っているものは何か。

商品、サービス、情報、経験、感情をすべて考えてみてください。

旅行は世界最大の産業なのだ。自動車産業よりも大きい。コンピューターよりも大きい。

人は毎日退屈を感じている。

そう感じている人のためにどのような経験を提供してあげられるだろうか。

あなたの持っている知識にはどのようなものがあるだろうか。

 まさにこのジェームスの質問には、何億何兆円かの価値がある。

 今あなたの行なっている仕事で、この問いかけをしてみるのである。

 この「黄金の質問」からは必ずアイディアが出てくる。

 そしてそのアイディアを実行に移す時、それが多くの人や社会のお役に立つものであれば、必ずそれは「巨万の富」として私たちのもとに還流してくるはずである。

 例えばジャック・カンフィールドとマーク・ビクタ・ハンセンは、ある本のアイディアを思い浮かべた。

 彼らのアイディアはとても簡単なもので、有名な講演家たちにベストストーリーを提供してもらい、それを一冊にまとめるというものだった。

 百社以上の出版社に拒否されたが、それでもアプローチをし続けて出版にこぎつけた。その本は大成功をおさめ、シリーズ化され、一億五千万部以上の売り上げを記録し、生きた著者としてはノンフィクションでナンバー1の発行部数になった。

その名は「心のチキンスープ」で世界中の人々がそのおいしい「心のスープ」に舌鼓をうち、ほのぼのとした思いになったのであった。

Rimg0013 熱海の海にて

 

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«「宇宙的目覚めの時代」・・逆境で生まれる新文明