ベルクソンVSアインシュタイン・・時間論を巡って

 20世紀の生んだ知の巨人、ベルクソンとアインシュタインはどのように交わり、そして意見を交わしたのか。

 これは、小林秀雄がその未完のベルクソン論「感想」で扱った一大テーマでもありますが、下記の小論「ベルクソンVSアインシュタイン」でもその一端に迫っています。

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小林秀雄はそのベルクソン論の「感想」において、アインシュタインの時空論について次のように指摘している。

「対象の客観性という観念は、アインシュタインによって、誰も考え及ばなかった高度まで、徹底的に推進された」

 注目すべきは、アインシュタインの日記にあるベルクソンに関する感想であり、またベルクソンのアインシュタイン流の時間論に対する言及です。

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アインシュタインは来日する船の中でベルクソンに言及している

 その触りを紹介すると、二人の決定的な差異はその「時間論」にありました。

 ベルクソンアインシュタイン流の時間に対して、それは結局のところ、「紙上の上に存するにすぎない」とも言っています。

 そして生きた時間を取り戻すためには「持続の中に復帰して、実在をその本質である動きにおいてとらえ直さなければならない」(『思想と動くもの』)というのです。

 ベルクソンは「時間と自由」という初期の論文の中で、次のように説いています。

科学は、時間と運動からまずその本質的で質的な要素をーーつまり時間から持続を、そして運動からは運動性をーー除き去るという条件なしにはそれら(運動体)を処理できないのである。

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 ベルクソンのやろうとしたことは、この除去された持続と運動性の回復にあったと云ってもいいと思います。

 もっというと、生命というのが先にあって、その純粋持続から等質的な空間や物理的な時間が生まれてきたのであって、あくまでも「生命」がこそがこの世界の主役であるということを彼は強調したかったのだと思います。

その意味からしても、彼の哲学はやはり「生命哲学」と呼んでいいのであります。

ちなみに前にも紹介した前田英樹氏の「ベルクソン哲学の遺言」の第3章「砂糖が溶ける時間」では、その時間論が実にうまく書かれています。・・

 
ベルクソンvsアインシュタイン

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 ハイデルベルクで「時間」について考える

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桜に魅入られた小林秀雄

人間が何かを見る、ということは、魅入られることだ。

魅入られない以上、感動も、逆上もあるまい。

魅入られたことを「かぶれ」とか「つきもの」という。・・小林秀雄

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 小林秀雄が文字通り、桜に取り憑かれていたことは有名だ。

 

 妹の高見澤潤子さんによると、小林は昭和57年3月の末、急に発病して入院したが、十何日か経ち、桜の見頃になった。

 

 自宅のしだれ桜が満開になる頃、小林があんまり桜の花を見たがるので、主治医が特別に週末に帰宅を許してくれたという。

 

 ところが、その前の晩、強い風雨があって、折角の花は殆ど散ってしまった。

 

 家の者はがっかりして残念がり、昨日までどんなに綺麗であったかをつぶやいたが、小林は食い入るように、ほとんど散ってしまった桜をながめていた。

 

 そして高見澤さんは、小林の批評が窮極のところ、何であったのか、伺わせるエピソードを紹介している。

 病院に帰って兄は、今年は桜がみられないと思っていたのに、おかげさまで、すばらしいお花見が出来てありがとうございましたと、何度も主治医に御礼をいった。

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 小林の云う「すばらしいお花見」とは、単なる御礼のための言葉に過ぎなかったのか。

 

 私はこう思う。

 

・・小林の心眼には、まざまざと桜の花が咲いていることが見えていたのだ・・と。

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 現象的には散ってしまった桜の奥にある「サクラの命」なるものを彼は確かに観ていたのだ。

 

 「サクラの命」は花びらを落としても、また来年咲くための準備をもう始めている。

 

 春から夏へ、夏から秋へ、そして冬枯れの景色の中でも、「サクラの命」の営みは花開く日のために黙々と続けられている。

 

 そこには一つの無駄も力みもない。

 ただ・・あるがままの世界、自然法爾の世界があるのみである。

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一枚の葉っぱに全宇宙を見る

若松英輔さんは、ドストエフスキーを「見霊者」と見做した井筒俊彦の言葉を紹介しながら、「見霊者」は、幻視者ではない。彼が見たのは幻影ではない。彼には確かに「現実」だった・・と書いている。・・『叡知の哲学』114頁

 確かにドストエフスキーが我々の現実とは違う“新世界”を見ていたことは間違いない。彼にしてみれば、その“新世界”は既に完璧であり、どこにも悪いものがない。

そしてこの“新世界”の方が本物であり、普段私たちの見ている現実世界の方がニセモノかもしれないのだ。

 例えば、ドストエフスキーの名著の一つである『悪霊』では、キリーロフという自殺する男が、主人公で大悪党のスタヴローギンと次のような興味深い会話をしている。

「あなたは木の葉を見たことがありますか、木から落ちた葉っぱを?」

「ありますよ」(スタヴローギンが答える)

「私はこの間、ふちの方がもう枯れてしまった、黄色い、いくらか緑がかったのを見ました。風で飛んで来たんです。

私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。

私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした」

「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」

「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。

私の言っているのは木の葉です。

ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです」

「何もかも?」

「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。

それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に

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これがまさに絶望のどん底にいる二人の会話だとはとても思えないだろう。

このキリーロフは癲癇もちで、その発作の時の体験を次のように話している。

「その時の気持ちは、もうまったく明澄そのもので、そこに議論をさしはさむ余地なんか全然ありはしない。

まるで突然、全宇宙をそっくりそのまま直観して

「そうだ、これでよし」

と肯定するような気持ちなんだ。

それはちょうど、神が世界を創造するときに、創造の一日一日の終わるごとに

「しかり、これでよし」

と云われたのと同じようなものさ。

ただ有頂天になってしまうことじゃない、なんとなくしいんと静まり返った法悦なんだ。

その時には、もはや赦すというようなことはできない、なぜって赦すべきものなんか何一つ残らないんだもの」

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 ドストエフスキーの大作は混沌とした宇宙であり、登場人物の何気ないセリフに途方もない真理を語らせている部分もあるから、どんな些少と想われるセリフも注意して読む必要がある。

 それがたとえ、大酒のみであり、好色家であったり、大悪党の言葉であったとしても・・。

 特に先のキリーロフの人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」はまさに名言である。

  ちなみに岐阜・オークビレッジの稲本正さんは、このドストエフスキーの箇所を読んで、「やはりドストエフスキーは天才だ」と思ったという。

・・「葉っぱ一枚の中にも宇宙がある」というようなことも書いているが、「都会で人間の内面を掘り下げながら、ついには宇宙の真理まで洞察しているのだなぁ」とも思った。
・・稲本さんの本より

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  一枚の葉っぱに全宇宙を見る
   ・・フランクフルトにて

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魂の進化の法則・・

ベルクソンが言う「知ラレザル大陸」とは、「死後の世界」と言ってもいいし、未だ発見されていない「宇宙の法則」とも呼んでもいいだろう。ベルクソンは次のように言う。 

 心霊学が確実なケースとして提出しているもののうち、ほんの一部しか受け容れなくても、心霊学がやっとその探索の緒についたばかりのこの「知ラレザル大陸」の広漠を窺うには充分な分量が残る。

この未知の世界からの微光がわれわれへまで届いて、この肉の目に見えたとしよう。

--この場合、ただ目に見え、手で触れられるもののみを、存在するものと考えならわしてきた人類に起こる変化は、いかばかりであろう。

・・「道徳と宗教の二つの源泉」

 この「知ラレザル大陸」を探索する上で、ガイドブックになるのが前回も紹介したラズロの著書『コスモス』である。

 ここで強調されているのは、この宇宙には実は驚くべき一貫性があるのではないか、ということである。

 すなわち宇宙に存在するすべてのもの(太陽、月、星、地球、生物、分子、原子、量子・・)はお互いにつながっており、しかも宇宙には進化するための一貫性が、あまねく存在する、というのである。

 そして『コスモス』によると、私たち人類の使命はコスモスの進化を促すことであという。

 私たちは全一世界(ホールワールド)の一部です。創造されるものであり、みんなでともに創造していくものであります。

私たちは全一世界の組織と秩序に加わり、そこにもともと備わっていながら絶えず蓄積していく知性に触れて、その意識の成長に貢献するのです。

 この宇宙がただ一つの存在「サムシンググレート」から生まれてきたと仮定するならば、全てのものはつながっていて、しかも「進化」という一貫性があまねく貫いているということは十分に考えられることである。

 この世界を深く観察するならば、まるですべてのものがともに廻りながら、踊りながら螺旋階段を上っているようにも見える。

 私たちが目には見えないマインドを通して、自分の周囲に家族、同僚、物、出来事、運命などを心で引きつけているというのも、実はこの一貫性、つまり法則が宇宙を貫いているからではないだろうか。

 心霊学の説くところによれば、私たちはまるで鏡のように現在の魂の発達段階に合わせた人・事・物を引き寄せており、これも互いが学び合って己を磨き、さらに次のステージに立つためであるという。

 このいわば「魂の進化の法則」が私たち人間だけでなく、宇宙のすべてに遍く貫いているということを「新しい文明」では認めることになっていくであろう。

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「宇宙的目覚めの時代」・・逆境で生まれる新文明

 惑星間の視点から見ると、現在の地球上の人類は大きな逆境にありながらも、その力を借りながら新しい文明の形をつくろうとしている。 

 フランスの哲学者、ベルクソンによると、生命はあらゆる逆境を乗り越える力をもっており、創造的に進化しようとしていると云う。

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 まさに東日本大震災や熊本地震などの痛手から立ち上がろうとしておられる皆様の活躍に私たちが感動するのも、どんな逆境に遭いながらも、それを乗り越えようとしている生命の力、「創造的進化」の力に共感するからに違いない。

  •  ここで大切なのが、山本良一教授のように「宇宙船地球号のグランドデザイン」を描くことである。

  •  山本教授は地球生命圏が環境危機にあるとともに、宇宙船地球号の操縦マニュアルとして「エコ文明」への転換戦略を大胆に提案している。

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     おそらく人類は史上初めて、宇宙的視点から創案した共通の「グランドデザイン」を描くことを求められている。

  •  これをヨーロッパの知の巨人、アーヴイン・ラズロ博士は「ワールドシフト」ととも呼んでいる。

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       「ワールドシフト」を説くラズロ博士

  •  ちなみに龍村仁さんによると、かつてアポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートは次のように語ったことがあったという。 
     

  • 「私達人類は今、宇宙的誕生(コズミックバース)、宇宙的目覚めの時代にさしかかっている」

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     これは、「赤ちゃん(人類)は、生まれ出て(宇宙から地球を見て)初めてお母さん(地球)を自分とは別の存在である、と認識し、そこから、母の一方通行の愛に甘えるだけではなく、母に対する感謝の気持ちや愛を育み、責任感を持つようになる」(龍村さん)という意味だそうだ。

     とすれば、現代文明がトインビーの云う様々な挑戦を受けている現在の逆境は、人類が宇宙的に誕生するための「陣痛」であるとも言える。

  •  人類は「宇宙的目覚めの時代」へ入ろうとしているのである。

     以下、「逆境で生まれる新文明」1回目の序論と2回目以後の論考であり、グランドデザインを描く参考になれば幸いである。

  • ◎逆境で生まれる新文明/総集編◎

    平成23年4月18日付の日経新聞には、「トインビーをもう一度・・不都合な真実に『応戦』を」と題した興味深いコラム(土谷英夫氏)が掲載されていいた。

     そのコラムによると、英国の歴史家トインビーは文明は逆境から生まれると説いていたという。

    ・・文明は自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。

    例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。

    ・・トインビー流に言えば、大地震・大津波という自然的環境からの挑戦と、原子力エネルギーに依存する人間的環境からの挑戦を同時に受けているのが、いまの日本。間違いなく66年前の「敗戦」以来の逆境だ。

    ・・「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という「易経」の一節は、トインビーの文明論の核心をよく言い当てている。

    明治維新でも、終戦後でも、国のかたちを変える改革を断行した。いま変わらなければ、日本は衰退する。

     また、トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげているという。状況に振り回され、応戦できない文明は衰退するというわけである。 
      
     換言すれば、ポジティブに「応戦」できれば、今回の大震災は新しい文明やパラダイムが生まれてくる可能性もあるのではないだろうか。

     例えば惑星間というより大きな視点から見るとき、大震災後、下記の三つのパラダイム転換が起きてきているように思う。

     
    ①拡大したコミュニティー意識の誕生
    ②「自然と共生した文明」への進化
    ③新しい自己像の萌芽

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    逆境で生まれる新文明2・・拡大したコミュニティー意識の誕生 

    逆境で生まれる新文明3・・「自然と共生した文明」への進化

    逆境で生まれる新文明4・・新しい自己像の萌芽

    逆境で生まれる新文明5・・十牛図による新しい自分の発見

    逆境で生まれる新文明6・・惑星的思考へのシフト

    逆境で生まれる新文明7・・ラズロ博士の「ワールドシフト」

    逆境で生まれる新文明8・・課題解決先進国・日本文明のミッション

    逆境で生まれる新文明9・・ジネン(自然)の思想

    逆境で生まれる新文明10・・宇宙的目覚めの時代

    逆境で生まれる新文明11・・ベルクソンの「精神のエネルギー」 

    逆境で生まれる新文明12・・新しい精神の科学 

    逆境で生まれる新文明13・・新しい精神の科学2 

    逆境で生まれる新文明14・・慈悲の文明(悟りの文明)の誕生

    逆境で生まれる新文明15・・祈りの文明へ・・科学と宗教の対話

    逆境で生まれる新文明16・・祈りによる高次元の開拓 

    逆境で生まれる新文明17・・村上和雄氏の説く魂と遺伝子の法則 

    逆境で生まれる新文明18・・「サムシング・グレート」から考える 

    逆境で生まれる新文明19・・コスモス(宇宙)の一貫性 

    逆境で生まれる新文明20・・思考のすごい力 

    逆境で生まれる新文明21・・月面上の思索

    逆境で生まれる新文明22・・創造的に進化する宇宙

    逆境で生まれる新文明最終回・・「知られざる大陸」を求めて8

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    「スーパーセルフ」の開発が人類を救済する・・

     もし宇宙人なるものがいて、地球人の改造計画をするならば、どこから手をつけるだろうか。

     ある宇宙人は地球人の持っている自分像=セルフイメージの改革から手をつけるかもしれない。

    Amr12060700140000p1               「火星年代記」などの名作で知られる
                   SFの巨人、レイ・ブラッドベリ

     何故なら、現在の地球上の様々な問題の原因は、結局のところ、そのセルフイメージがあまりに狭く、低次元であるところにあるからだ。

     もしセルフが肉体としての自分というような極めて限定されたものではなく、宇宙に遍満するところのグレートセルフ、宇宙大生命だとしたら、その行い、習慣、ライフスタイルそのものが劇的に変わってくるに違いない。

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     何しろ、自分の肉体の周囲にあるあらゆる人々、草花、自然、海、道路、物・・など森羅万象が他ならぬ自分自身であり、どれもが尊い大生命の兄弟であり、礼拝せずにはおれない、かけがえのない存在になるのだ・・。

     よく言う「利他」という言葉も、このようなセルフイメージにあっては意味をなさない。むしろここにあっては、自分を礼拝し、大切にすることがそのまま「利他行」になるのである。

     ちなみに道元の言った「他己」とは、このような「スーパーセルフ」のことを指しているのだろう。

    ・・唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

    ・・一遍上人

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     この「スーパーセルフ」=「光」なるものは、私たちの中にいつもある。 

     21世紀の人類が行うべきは、この内なる「スーパーセルフ」、つまり無限の資源の発掘である。

     一体、吾々の持つ力が如何なるものなのか、測ったものは誰もいない。

     何故なら、私たちの持つ潜在能力はおそらく無限であり、無尽蔵だからだ。

     あのイチローの見せるバッティング技術は、常に進化しており、彼は50歳まで現役でいる夢を持っているそうだ。

     彼はいわゆる人類の引いた常識という限定した線を書き換えることに喜びを見出しているようだ。

     が、これはイチローのような天才たちに限られた話ではない。

     私たちも今日一日、自分の持つ力(光)を120%出し切れば、確実に能力はアップするはずだ。

     何故なら80%しか出さない人は、いつも力を出ししぶることから、無尽蔵の能力の壺の蓋を開けることが出来ない。

     天才とは、この120%の可能性にかける人達のことを言うのである。


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         フランクフルトの朝

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    成功とは円熟すること・・小林秀雄の成功哲学

    成功とは、遂行された計画ではない。

    何かが熟して実を結ぶ事だ。

    其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。

    何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。(「還暦」)

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    天才的数学者、岡潔は、数学者は職業にたとえるならば百姓に似ているとと言ったという。

     アイデアという種を大地にまいて、丹念に手入れをする中で実るのを待ち、収穫をするからである。

     小林秀雄がここで言っている境地も、ある着想なるものが熟して実を結ぶことの大切さである。

     おそらく今の成功哲学がどこかに置き忘れているのが、この円熟の思想である。

     私たちは何かを計画し、遂行することによって、成功するのではない。

     あるテーマという種を丹念に育て、それが自ずと熟してくることによって成功するのである。

     それは小林が取り上げたゴッホ、ドストエフスキー、本居宣長などの天才論を見ればよくわかる。

     最初にある直感を得ながらも、小林は実に丹念に天才達と付き合い、熟するのを待つ。ただひたすら待つのである。

     この時間をかけて「待つ」という営みこそが、小林の批評の神髄である。

     みんなどうして、ファーストフードみたいに作品を料理したがるのか。

     早く料理しようとすればするほど、作品の命はすりぬけていってしまうではないか・・。

    そんな小林のため息が聞こえて来るのは私だけであろうか。

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    「惑星意識」への進化・・意識革命を起こす本

      地球人にパラダイムシフトを起こして意識革命を起こす三冊を紹介しよう。 

    いずれも「意識の拡大」、物の見方の革命を促している。

     まずは「地球環境問題を仏教に問う 温暖化地獄を仏教・密教は救えるか」で、山本良一竹村牧男, ,  松長 有慶の三氏という 環境学者×宗教学者×僧侶の対談本である。

     宗教、仏教、そして真言密教は地球環境のために何ができるのだろう・・大きな問いかけに三人の識者がそれぞれの思いをぶつけており、哲学書としても一級品と見た。

     そして地球環境問題を解決する上で、今後避けて通れないのは「個人のライフスタイルの変革」であり、そのためのヒントを、仏教、密教の教義の中に探っていくのだが、環境問題と言う21世紀最大の問題に、仏教の教義、組織形態、ライフスタイルなどが改めて照らし出されてその存在意義と新しい可能性が見えてくるところが興味深い。

     思うに環境問題は、科学と宗教の垣根を超えて、人類の意識レベルを「惑星意識」にしていく可能性を秘めている。

     特に弘法大師空海の説いた「即身成仏」というコトバが、環境問題によって新たな意味と可能性をもって蘇りつつある点は注目すべきである。

     大日如来と一つになることはどういうことなのか。

     そこに咲いている小さな草花も大日如来の分身であり、自分自身ということにはなるまいか。

     とすれば、人類は自分自身でもある地球の自然を自ら破壊していることになる。

     このような「意識の拡大」なしに環境問題の根本的な解決にはならないのではないか。

     ちなみに現在の環境問題の日本のオピニオンリーダーである山本良一氏は、真言密教のマンダラ図に触発されて「環境マンダラ」なるものを考案している。
          

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     二冊目は本ブログでも繰り返し紹介してきた小林秀雄と井筒俊彦という現代日本を代表する知性、哲学者の共通項に迫った若松英輔さんの叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦である。

    この本の帯にある・・

    「哲学者は詩人たり得るか? 

    日本古典の思想性を「詩」の言葉で論じた小林秀雄――。

    古今・新古今の歌に日本の哲学を見出した井筒俊彦――。

    二人の巨人を交差させ、
    詩と哲学の不可分性に光をあてる、清廉な一冊。 」

     という言葉にすべてが言い尽くされている。

     二人の哲学的巨人を交差させ、詩と哲学の不可分性に光をあてる時に見えてくる世界・・。

     このブログでも繰り返し紹介しているが、この二人の巨人が追求したのは、存在の実相に迫り、実際に体験するとともに、それを己の文体で表現するという営みである。

     イスラムの神秘哲学者が追求した「神秘家かつ哲学者」の道をこの二人ほど極めた人はいないように思う。

     その取り扱った対象は違っても、その対象に対する迫り方はあまりにも酷似している。

     例えばギリシャの哲人たちに、二人は「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。

     この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

     観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

    井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

    ・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

     神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

    なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

     アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。

    観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。

    それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

    一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。

    ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

    『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

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     三冊目はあなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。 1秒でこの世界が変わる70の答え」。

     ひすいこたろうさんの本はほとんど読んできたが、この書はひすいさん流、「物の見方ガイドブック」の決定版と見た。

     とにかく、爆笑しながら、自分の「物の見方」が柔軟になっていくのがわかるのである。

    世界は白いキャンバスなんです。

    だからこそ、みんなが喜びを感じられるように、楽しくなるように、世界を自由に解釈すればいいんです。

    ・・どう解釈するか、認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。

    あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。

    つまりあなたこそ、世界の救世主だったのです。

    だから、神社のご神体は鏡なんです。

    神様に拝んでいるとき、鏡に写っているのは拝んでいるあなた自身です。

    あなたが変われば、

    鏡に映るこの世界も一秒で変化します。

     

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    リルケ、小林秀雄の至高体験

     

     若松英輔さんの『神秘の夜の旅』に登場する越知保夫をはじめ、小林秀雄、井筒俊彦、マルセル、リルケ、ドストエフスキーなどに共通するのは、目に見えない“至高なる存在”を信じていたことだろう。らは信じていただけでなく、その臨在をまざまざと感じていた。

     それは自分を超えた存在を体験する「至高体験」(マズロ)であったとも言えるだろう。

     そして詩人たちはその体験から何物かを語り始める“語り部”となるのである。

     若松さんの霊性にあふれた言葉を引用してみよう。

    詩人は自身を語る前に、託されたことを語らなくてはならない。

    むしろ、何ものかに言葉を「委託」されたとき、その人は詩人になる。

    詩人の努力は、言葉を探すところにだけあるのではない。

    彼に「委託」する、主体からの「呼びかけ」を待つことである。

    「過去の日の大浪」が意味するのは死者である。

    読み進めれば、示唆というにはあまりに直接的な経験が、リルケにあったことがわかるだろう。(『神秘の夜の旅』135~136頁)

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    リルケだけではない。小林秀雄にも、井筒俊彦にも、マルセルにも死者から「委託」された「直接的な経験」、つまり「至高体験」があったのである。

     小林秀雄の批評に至っては、彼が天才たちとの霊と直接会話しながら書いたのではないか、と思われる表現が随所に見られる。

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     その意味では、彼の批評とは死者を呼び出し、彼らと対話する「祈り」でもあったのではないか。

     彼はひたすら無私になって、天才たちからの「呼びかけ」を待っているのである。

     若松さんの引用しているリルケの詩を紹介しよう。

    風に似てふきわたりくる声を聴け、

    静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。

    あれこそあの若い死者たちから来るおまへの呼びかけだ。

    かつておまえがローマやナポリをおとずれたとき、教会堂に立ち入るごとに

    かれらの運命はしずかにおまえに話しかけたではないか。

    また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように

    死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

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       ハイデルベルクの古城跡にて

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    誰にも「全実在」は与えられている・・小林秀雄

     小林秀雄は「私の人生観」という戦後間もなく行った名講演で「哲学は一つのシステムでたりるのではないか」と提案している。

     これは、21世紀、惑星的な知性の出現と真の叡知にあふれた哲学を構築していくにあたって、多くの示唆を与えてくれているのではないだろうか。

     この小林の提案は「知覚の拡大」に伴う「実在」中心主義と呼んでもいいし、イブン・アラビーの「存在一性論」とも相通じるものがある。

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     小林秀雄が言うように「全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている」(「私の人生観」参照)。

    「私たちの命は、実在の真っ只中にあって生きている」のだが、そのような「豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要」である。

     何故なら、普通私たちは、日常生活の要求に応じて、便宜上、この経験を極度に制限する必要があるからだ。つまり、「見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない」。 

     つまり、可能的行為の図式が上手に出来上がるという事が、知覚が明瞭化するという事である。

    こういう図式の制限から解放されようと、
    ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はあるまい。

    彼の努力は、全実在が与えられている本源の経験の回復にあるので、そこで解放される知覚が、常識から判断すれば、一見夢幻の様な姿をとるのも致し方がない。

    ベルグソンは、そういう考えから、拡大された知覚は、知覚と呼ぶより寧ろVISIONと呼ぶべきものだと言うのです。


    ・・小林秀雄「私の人生観」

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     小林が言うように、私たち一人ひとりには「全実在」がそれぞれ与えられている。

     ところが、この「本源の経験」なるものが日常生活の便宜性にかまけて、通常は極めて矮小化され、静止化されて体験されている。

     この矮小化という網を一度、捨てて虚心に「実在」に向かうとき、私たちは思わぬ光景を目撃することができる。

     画家は、小林が言うように「見る」という全身心を賭した行為を通して「実在」に到ろうとするのだ。

     従って、優れた芸術家たちは、ベルクソンが哲学者達に望んだように、「唯一の美のシステムの完成に真に協力している」ことになる。

     そのめいめいがその個性を尽くして同じ目的を貫いており、「梅原という画家のVISIONと安井という画家のVISIONは、全く異なるのであるが、互に抵触するという様な事は決してなく、同じ実在を目指す。かような画家のVISIONの力は、見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出すのである」。

     ちなみにジャコメッティという画家は森林に入ったとき、木々の方から見られているという不思議な感覚に襲われ、その感覚から脱っするために絵を描いていたという。

     つまり自分という主体から木々という対象に向かうのではなく、木々という「実在」から呼びかけるモノがあるというのだ。

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      ドイツ・ハイデルベルクでの思索


     このような「実在体験」をマズローは「至高体験」とも呼び、マルセルは「現存」とも呼称したが、芸術家だけでなく、私たちにも「全実在」は平等に与えられているのだから、その実相に推参することはできるはずなのだ。

     小林秀雄があれだけサクラに入れ込んだのも、サクラそのもの=「実在」に魅入られた体験があったからに違いない。

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     誰にも「全実在」は与えられている・・

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    井筒俊彦と小林秀雄の共通点・・対話による叡智の発掘

     井筒俊彦が「東洋哲学の共時的構造化」を図るために行なった方法は、これから惑星的かつ宇宙的なスケールを持つ哲学を創造する上において、大変参考になる。

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     なぜなら、過去の諸哲学や神秘家たちの歩んだそれぞれの道を、一度、その時間的空間的束縛から解き放って、「それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的に創り出す」ことによって、それらに共通する「基本的思想パターン」や悟りに至るモデルを明らかにするのはもとより、その空間において自ずから東西の哲人たちの「対話」が始まり、新しい価値を生み出すことができるかもしれないからだ。

     日本の神道で云えば、万の神々が集って一堂に会して話し合うことにより、新たな価値を生み出そうとする「ムスビ」(産霊)の働き、つまりより高次元の創造活動が可能になるのである。

     井筒が広大な東洋哲学(イスラム、ユダヤ哲学なども含む)を有機的に包含するだけでなく、その哲学の持つ意味を現代思想の中で甦らせ、新たな現代的価値を与えたように、21世紀の初頭、哲学するための惑星的なアゴラ=広場を創設して、時間・空間を超えた哲人たちの「対話」を人為的に行なうことは決して夢物語ではない。

     プラトンがソクラテスを通して描いたのも、この「対話」(dialogue)による叡知=無知の知発見ではなかったか。

     この意味では、「叡知の哲学」とは、「対話の哲学」でもあるのである。

     この「対話」について、忘れられない小林秀雄の肉声がある。「本居宣長」を完成した後に行った講演での「学生たちとの対話」の中で確かに小林は次のように言った。

    心を開いて対話をすれば、生きた智慧が飛び交う・・

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    「対話」は、違う価値観・歴史を持った者同士が同じ土俵に乗って行う一種の共同創造である。

     しかし、この創造が真に独創的になるためには、ある条件が必要だ。

     例えば相手をやつけるための雄弁術では決して「叡知」にたどり着くことはできない。

     その「叡知」を修得するためには、小林秀雄の「無私の精神」という言葉があるように、一度、自分の持つ価値観を消して、相手をひたすらリスペクト(尊重)する心を持つ必要がある。

     つまり、このリスペクト精神を互いが持つときに、そこに自ずから高次元の「生きた智慧」(叡知)が飛び交うことになるのである。

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      フランクフルトで「対話」について考える・・

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    小林秀雄の鉄斎論・・自然と人間が応和する喜び

    鑑賞という事は、一見行為を拒絶した事の様に考えられるが、実はそうではないので、鑑賞とは模倣という行為の意識化し純化したものなのである。

    救世観音の美しさは、僕等の悟性という様な抽象的なものを救うのではない、僕等の心も身体も救うのだ。

    僕等は、その美しさを観察するのではない、わがものとするのである。

    そこに推参しようとする能力によって、つまり模倣という行いによって。

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          ゴッホの複製画の前で

     これは、「伝統」という小林秀雄のエッセーからの引用だが、小林秀雄にとって絵画や美術品などの「鑑賞」という行為がどのようなものであったか、よく解る文章である。

     彼のような徹底した「鑑賞」にあっては、自分と作品の境界はなくなり、観察するのではなく、まさに一体になって「わがものにする」ことに力点が置かれている。

     例えば、小林は富岡鉄斎を四日間ぶっ通しで、朝から晩まで250余の作品を見続けたというから尋常ではない、そこには何か魔的なものすら感じられる。彼の鉄斎論を見てみよう

     日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なしに、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対することは出来なかったのである。

     

    彼はこの態度を率直に表現した。

     

    讃嘆の長い歴史を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未踏の道を、彼は発見した様に思われる。

     

    自然と人間とが応和する喜びである。

     

    この思想は古い。

     

    嘗て宋の優れた画人等の心で、この思想は既に成熟し切っていた。

    鉄斎は、独特な手法で、これを再生させた。

    彼は、生涯この喜びを追い、喜びは彼の欲するままに深まった様である。

    悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、そようなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた。

    「鉄斎Ⅱ」

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             仙縁奇遇図 

     

      鉄斎の喜びをわがものにした小林の批評は「鑑賞道」とでも呼びたい、厳しくも喜びにあふれた行から生まれてきたのであり、頭の中だけで巧んだものは一つもないのだ。

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    一瞬で世界を変える方法・・総集編

    一瞬で世界を変える方法・・

    それは.....

    今、見ているもの、出合っているものの

    本物を観るということです。

    私たちが間断なく出合っている人、物、事、自然には

    それぞれに見せる顔というものがあります。

    ただ、そこには本物と仮のお面を被っている偽物の二つがあるのです。

    例えば、この地球上で見せている生命の姿も仮のものであり、本来の生命の本質はほんの少ししか現れていないのではないか、と観るのです。

    私たちの命は地球上の重力下という特殊な環境のもと、様々な種を生み出し、この地球上に満ちあふれているわけですが、それでも生命の持つ無限性から観るならばまだまだなのです。

    この命の持つ可能性、無限性に目を向けて行動するとき、世界は変わります。

    なぜなら、今目にしている苦しみも問題も生命の無限性がこれから現れるためのプロセスにすぎず、本物ではないからです。

    例えばハイポニカという農法を編み出した野澤さんという人をご存じでしょうか。

    以前の文章から引用してみましょう。

    野澤重雄氏ハイポニカ(水気耕法)によるトマト、キュウリ、サトウキビなどの栽培は示唆にとんでいる。

    一株のトマトから一万三千個ものトマトが実るという驚嘆すべき栽培法の基本は、野澤氏によると本来の生命力は、現在の地球自然の状態では発揮されておらず、その制限している原因である土という塊から解き放ち、養液を流速を与えて循環させている水の環境に置いてやると
    本来の驚くべき生命力が現われてくるというのだ。

    同氏によると生命の本質とは「生長・発展する力」であり、「変化し、動いている」ものである。


    この本質を引出す環境を設定すると生命は無限に生長する右上がりのベクトルをとるという。生命は変化、動きを通してその本質(生長・発展する力)を露にしていく。

     言わば、
    地球上における生命は物質という強い抵抗に合いながら顕現している「生命の見かけの現象」であり、ベルクソンの言うエネルギーの蓄積と爆発という「生命の本質」をおおい隠しているのである。

    Bergson

     生命の哲学者、ベルクソン

     この生命の本来持つ驚くべき「生長・発展する力」を信じて見守る。

     そして伸びる兆しが見えれば全身全霊で誉めて、感謝すること。

     このことができるようになれば、間違いなく世界は変わります。

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    ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

      これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

     本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

     特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

     この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

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    小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

    詳しく紹介している.

     ベルクソンの論点は大きく三つある。

    ① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

     ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

     ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

     たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

     また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

     ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

     溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

     ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

    ② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

     ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

     ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

     同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

    ③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

     ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

    ・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
     あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
     すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

     ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

    「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

     なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

     このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

     結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

     わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

    けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

    それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

    Bergson

     それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

     ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

    ☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

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    「大企業を作る方程式」・・ジェームス・スキナー

     ジェームス・スキナーによると、「無限大の天地宇宙にとっては、大きいも小さいもないものだ」という。

     従って、ビジネスを構築していく上でも、どんなに大きなことを望んでも遠慮はいらない。

     むしろ、その目的やアイディアが大きければ大きいほど、ビジネスの規模も大きくなってくる。

    「大きな夢を見て、大きく望み、大きく希望する。小さい夢や希望と同じように、確実にそれが実現されると考えて良い」というのだ。

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     なぜなら、普遍の物質は無限にあり、「無限の可能性の場」において思いの振動によって、その物質は制限なくさまざまな形をとるからだ。

     ちなみにジェームスの説く「大企業を作る方程式」は、下記の七つの要素から構成される。

          1. 大きな目標
          2. 大きなアイディア
          3. 大きな人
          4. 大きな資本
          5. 大きな提携先
          6. 大きな流通
          7. 大きな社会貢献

     大きな会社は、大きな目的、大きなアイディアから出る。

     ジェームスの言うように、大勢の人を助けるようなアイディアでスタートして、人の本当のニーズに応えていれば、会社はどの大きさにもなるのだ。

     例えば、これからの時代は、宇宙を相手にしたビジネスや能力開発などが人類のニーズとして出てくるだろう。

     21世紀は、おそらく宇宙大の目的、宇宙大のアイディア、宇宙大の発想、宇宙大の哲学などが想像もつかないビッグ・ビジネスを産んでいくに違いない。

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     宇宙大の発想力が求められてくる 

     

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    «魂の進化の法則・・