魂の進化の法則・・

 ベルクソンが言う「知ラレザル大陸」とは、「死後の世界」と言ってもいいし、未だ発見されていない「宇宙の法則」とも呼んでもいいだろう。ベルクソンは次のように言う。 

 心霊学が確実なケースとして提出しているもののうち、ほんの一部しか受け容れなくても、心霊学がやっとその探索の緒についたばかりのこの「知ラレザル大陸」の広漠を窺うには充分な分量が残る。

この未知の世界からの微光がわれわれへまで届いて、この肉の目に見えたとしよう。

--この場合、ただ目に見え、手で触れられるもののみを、存在するものと考えならわしてきた人類に起こる変化は、いかばかりであろう。

・・「道徳と宗教の二つの源泉」

 この「知ラレザル大陸」を探索する上で、ガイドブックになるのが前回も紹介したラズロの著書『コスモス』である。

 ここで強調されているのは、この宇宙には実は驚くべき一貫性があるのではないか、ということである。

 すなわち宇宙に存在するすべてのもの(太陽、月、星、地球、生物、分子、原子、量子・・)はお互いにつながっており、しかも宇宙には進化するための一貫性が、あまねく存在する、というのである。

 そして『コスモス』によると、私たち人類の使命はコスモスの進化を促すことであという。

 私たちは全一世界(ホールワールド)の一部です。創造されるものであり、みんなでともに創造していくものであります。

私たちは全一世界の組織と秩序に加わり、そこにもともと備わっていながら絶えず蓄積していく知性に触れて、その意識の成長に貢献するのです。

 この宇宙がただ一つの存在「サムシンググレート」から生まれてきたと仮定するならば、全てのものはつながっていて、しかも「進化」という一貫性があまねく貫いているということは十分に考えられることである。

 この世界を深く観察するならば、まるですべてのものがともに廻りながら、踊りながら螺旋階段を上っているようにも見える。

 私たちが目には見えないマインドを通して、自分の周囲に家族、同僚、物、出来事、運命などを心で引きつけているというのも、実はこの一貫性、つまり法則が宇宙を貫いているからではないだろうか。

 心霊学の説くところによれば、私たちはまるで鏡のように現在の魂の発達段階に合わせた人・事・物を引き寄せており、これも互いが学び合って己を磨き、さらに次のステージに立つためであるという。

 このいわば「魂の進化の法則」が私たち人間だけでなく、宇宙のすべてに遍く貫いているということを「新しい文明」では認めることになっていくであろう。

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タモリの天才・・これでいいのだ・・

 もう大部前の話になるが、赤塚不二雄の葬儀におけるタモリの弔辞には驚いた。

 何でも白紙で彼は弔辞を読んだそうだ。

 それはともかく、弔辞から伺える赤塚さんの眼力とその生き方には、改めて感動した。

 まだ無名のタモリの天才に気づいた「眼力」とそれを世に出したところの「無償の愛」。

 何より私の心を動かしたのは次の一節だった。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。

それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。

この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。

すなわち『これでいいのだ』と。

 ・・平成20年8月7日、森田一義

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 どんな出来事も「これでいいのだ」と一度、肯定できれば善き事に変わるのではないだろうか。

 なぜなら、どんなに悲惨に思える出来事も、その背後には「神の栄光」が隠れているからだ。その裂け目からその光tが現れようとしているからだ。

  前に紹介した「黄金の仏陀像」の話を思い出そう。

 一見不都合に思える出来事とは、「黄金の仏陀像」を隠していたコンクリートが剥がれている現象に過ぎない。

 その悲惨な現象の自壊のプロセスを通して「黄金の仏陀像」という本物が現れようとしているのだ。

 私も赤塚さんに倣って云おう。

これでいいのだ。

全てはうまくいっている。

全ては魂が生長するための糧である、と。

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ドストエフスキーの創造した天使・・アリョーシャの復活の体験

 井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で強調する「新しい人」の完成形とでも云うべき人物が、『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャだ。

 小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。

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 確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった青年として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。

 無垢ではあるが、アリョーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて真実を観る無私の愛にあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

 井筒俊彦の『ロシア的人間』の最後に登場するのもこのアリョーシャだ。

 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。

それこそドストエフスキー的人間の最高の境地であり、窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく表現せんがためにのみ、ドストエフスキーは「文学者」として、あの苦難にみちた一生を生き通した。

憶えば、彼が真にその独創性を発揮した最初の小説『罪と罰』を書いた時にも、すでにそれは彼の根本的テーマだったのである。

殺人を犯してきたラスコーリニコフに向って、ソーニャが一刻も早く広場に行き、地べたにひざまずいて、公衆の面前で自分の罪を告白することを勧める、あの感動的な場面は何のためにあるのか。


また彼の最後の長編小説『カラマーゾフ』の中で、ゾシマ長老の亡骸の傍らでカナの婚宴の
奇蹟を夢見たアリョーシャが、地上にがばと身を投げて、大地を夢中で抱擁し、大地で涙でぬらしたのは何のためだったのか。


いずれもそれは人間新生の、つまり「旧い人間」が死んで「新しい人」が甦る復活の秘蹟を象徴する秘蹟的行為なのである。

「静かにきらめく星くずに満ちた穹窿(きゅうりゅう)が涯しなく広々と頭上を覆い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。

静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。

・・・じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。

何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。

しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙でぬらした。

そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。・・

無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神々の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持だった。

そして彼の魂は「他界との接触」にふるえていた。すれは一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。

しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全てのひとのために・・・。あの穹窿のように確固として揺ぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。

さっき地上に身を伏せた時は、脆弱な青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」・・『ロシア的人間』「第13章 ドストエフスキー」

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 こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだ予感にすぎなかったものが、「アリーシャにおいて現実となって完成する」と井筒は結論づけている。

 いずれにしろ、「魂の探偵小説」としてのドストエフスキーの人間探求が、アリョーシャという「天使」の創造を通して一つの結末に到達したことは間違いない。

 読者もアリョーシャとともに一生かわることのない堅固な力をもった戦士」として復活することをドストエフスキーは希求していたのかもしれないのだ。

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「より高い次元での統合」は可能か・・井筒俊彦の啓示

井筒俊彦の言う種々の対立を超えた「より高い次元での統合」は如何にしたら可能なのか。

 そのために井筒が行った方法とは、「西洋と東洋の深層における対決」「対話」というものであった。(『意味の深みへ』の「人間存在の現代的状況と東洋哲学」参照)

 井筒によると、「人類文化をある意味で二分する東洋と西洋の文化を、今までよりもっと根源的な形で、より深いレベルで、対決させ、両者の高次の統合の可能性を、あらためて考え直してみることが必要になってくる」と云うのである。

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 それでは、東洋の深層における「世界像」とは何か。

 この世界像の最も顕著な特徴は、第一に意識と物質とが峻別されることなく、むしろ逆に両者が互いに浸透し合うような流動性を示すこと、次に、そこではいわゆる事物が存在者ではなくて、むしろそれぞれ一つのダイナミックな存在的「出来事」であること。

 結局、全体としての世界は、こういう数限りない存在的「出来事」の相関的、相互依存的、相互浸透的な編目構造の不断に繰り拡げられ、畳みこまれる流動的プロセスとして現われるのでありまして、要するに、それが世界と呼ばれるものの真相である、ということになります。

 一方、西洋における深層にも、現代自然科学の、まったく新しい存在観、存在感覚に裏づけられたまったく新しい「世界像」があり、そこでもまた、物質と意識の本質的峻別は無力化されてしまう。

元来、物質と意識とを矛盾的対立関係におくのは、ニュートン力学のパラダイム、あるいはデカルト的二元論に基く見方でありまして、このような見方をするかぎり、ものの本源的透明性とか、ものとものとの相互浸透などということは考えられません。

しかし、皆様もご承知の通り、現代物理学では、この旧来のパラダイムは既に新しいパラダイムに置き換えられ、デカルト的な物と心の二元論は否定されつつあります。

自然科学のこの新しいパラダイムが、いわゆる「事物」の存在論的構造そのものに意識の積極参加を認め、それによって事物の実体的凝固性を「溶解」し流動化するような性格のものであることが注目されております。

まり、今までいわば固い凝結性において考えられていた物質的世界が、意識の内面からの参与によって、限りなく柔軟で、常に変転する「出来事」の相互連関の複雑微妙な創造的プロセスとして見られるようになってきた、ということであります。

1 賢明なる読者は気づかれたように、現代の自然科学的パラダイムに基づくこの西洋的世界像は、伝統的な東洋哲学の世界像に酷似するところがあり、西洋の物理学者の中にもそのことに気づいて華厳や禅などの世界観を積極的に取り入れようとしている人もいる。

 つまり、「東西の文化的ディアローグ(対話)はその深層においては既に始まっている」というのが、井筒の強調したいところなのである。

 こうしてそれぞれ独自の強力な創造性を備えたこれら二つの「文化的枠組み」が、現代という歴史の時点で、ぶつかり合い、対話し合う、そのドラマティックな展開のうちに、井筒は「より高い次元での統合」を見いだそうとするのである。

 その意味では人間関係でもあるように、「ぶつかり合う」ことも決して悪いことではない。

 その衝突から対話が生まれてくるならば、より高次元の視点に立って自分と他者を眺めるという気づきと創造的進化が生まれる可能性も内包しているのである。

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  衝突から対話へ・・人類はより高次元
  の立場に立とうとしている。
  (ハイデルベルクにて)

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億万長者になる質問とは・・

 ジェームス・スキナーにとって、お金とは「社会のために作り出した価値を情報化したもの」だという。

 そして・・その価値は、具体的には人や社会に役立つアイディア=情報として広まっていくのである。

 しかもその「アイディアはただ。無料で手に入る富なのである」。

 つまり、富はアイディアという価値からくるのであり、アイディアは人のニーズからくるものなのである。ジェームスはこう読者に熱く語りかける。

想像力を発揮し、思いを暴走させてください。

自分の今不満足に思っているものは何か。

周囲の人たちが不満足に思っているものは何か。

商品、サービス、情報、経験、感情をすべて考えてみてください。

旅行は世界最大の産業なのだ。自動車産業よりも大きい。コンピューターよりも大きい。

人は毎日退屈を感じている。

そう感じている人のためにどのような経験を提供してあげられるだろうか。

あなたの持っている知識にはどのようなものがあるだろうか。

 まさにこのジェームスの質問には、何億何兆円かの価値がある。

 今あなたの行なっている仕事で、この問いかけをしてみるのである。

 この「黄金の質問」からは必ずアイディアが出てくる。

 そしてそのアイディアを実行に移す時、それが多くの人や社会のお役に立つものであれば、必ずそれは「巨万の富」として私たちのもとに還流してくるはずである。

 例えばジャック・カンフィールドとマーク・ビクタ・ハンセンは、ある本のアイディアを思い浮かべた。

 彼らのアイディアはとても簡単なもので、有名な講演家たちにベストストーリーを提供してもらい、それを一冊にまとめるというものだった。

 百社以上の出版社に拒否されたが、それでもアプローチをし続けて出版にこぎつけた。その本は大成功をおさめ、シリーズ化され、一億五千万部以上の売り上げを記録し、生きた著者としてはノンフィクションでナンバー1の発行部数になった。

その名は「心のチキンスープ」で世界中の人々がそのおいしい「心のスープ」に舌鼓をうち、ほのぼのとした思いになったのであった。

Rimg0013 熱海の海にて

 

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「宇宙的目覚めの時代」・・逆境で生まれる新文明

 惑星間の視点から見ると、現在の地球上の人類は大きな逆境にありながらも、その力を借りながら新しい文明の形をつくろうとしている。 

 フランスの哲学者、ベルクソンによると、生命はあらゆる逆境を乗り越える力をもっており、創造的に進化しようとしていると云う。

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 まさに東日本大震災や熊本地震などの痛手から立ち上がろうとしておられる皆様の活躍に私たちが感動するのも、どんな逆境に遭いながらも、それを乗り越えようとしている生命の力、「創造的進化」の力に共感するからに違いない。

  •  ここで大切なのが、山本良一教授のように「宇宙船地球号のグランドデザイン」を描くことである。

  •  山本教授は地球生命圏が環境危機にあるとともに、宇宙船地球号の操縦マニュアルとして「エコ文明」への転換戦略を大胆に提案している。

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     おそらく人類は史上初めて、宇宙的視点から創案した共通の「グランドデザイン」を描くことを求められている。

  •  これをヨーロッパの知の巨人、アーヴイン・ラズロ博士は「ワールドシフト」ととも呼んでいる。

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       「ワールドシフト」を説くラズロ博士

  •  ちなみに龍村仁さんによると、かつてアポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートは次のように語ったことがあったという。 
     

  • 「私達人類は今、宇宙的誕生(コズミックバース)、宇宙的目覚めの時代にさしかかっている」

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     これは、「赤ちゃん(人類)は、生まれ出て(宇宙から地球を見て)初めてお母さん(地球)を自分とは別の存在である、と認識し、そこから、母の一方通行の愛に甘えるだけではなく、母に対する感謝の気持ちや愛を育み、責任感を持つようになる」(龍村さん)という意味だそうだ。

     とすれば、現代文明がトインビーの云う様々な挑戦を受けている現在の逆境は、人類が宇宙的に誕生するための「陣痛」であるとも言える。

  •  人類は「宇宙的目覚めの時代」へ入ろうとしているのである。

     以下、「逆境で生まれる新文明」1回目の序論と2回目以後の論考であり、グランドデザインを描く参考になれば幸いである。

  • ◎逆境で生まれる新文明/総集編◎

    平成23年4月18日付の日経新聞には、「トインビーをもう一度・・不都合な真実に『応戦』を」と題した興味深いコラム(土谷英夫氏)が掲載されていいた。

     そのコラムによると、英国の歴史家トインビーは文明は逆境から生まれると説いていたという。

    ・・文明は自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。

    例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。

    ・・トインビー流に言えば、大地震・大津波という自然的環境からの挑戦と、原子力エネルギーに依存する人間的環境からの挑戦を同時に受けているのが、いまの日本。間違いなく66年前の「敗戦」以来の逆境だ。

    ・・「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という「易経」の一節は、トインビーの文明論の核心をよく言い当てている。

    明治維新でも、終戦後でも、国のかたちを変える改革を断行した。いま変わらなければ、日本は衰退する。

     また、トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげているという。状況に振り回され、応戦できない文明は衰退するというわけである。 
      
     換言すれば、ポジティブに「応戦」できれば、今回の大震災は新しい文明やパラダイムが生まれてくる可能性もあるのではないだろうか。

     例えば惑星間というより大きな視点から見るとき、大震災後、下記の三つのパラダイム転換が起きてきているように思う。

     
    ①拡大したコミュニティー意識の誕生
    ②「自然と共生した文明」への進化
    ③新しい自己像の萌芽

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    逆境で生まれる新文明2・・拡大したコミュニティー意識の誕生 

    逆境で生まれる新文明3・・「自然と共生した文明」への進化

    逆境で生まれる新文明4・・新しい自己像の萌芽

    逆境で生まれる新文明5・・十牛図による新しい自分の発見

    逆境で生まれる新文明6・・惑星的思考へのシフト

    逆境で生まれる新文明7・・ラズロ博士の「ワールドシフト」

    逆境で生まれる新文明8・・課題解決先進国・日本文明のミッション

    逆境で生まれる新文明9・・ジネン(自然)の思想

    逆境で生まれる新文明10・・宇宙的目覚めの時代

    逆境で生まれる新文明11・・ベルクソンの「精神のエネルギー」 

    逆境で生まれる新文明12・・新しい精神の科学 

    逆境で生まれる新文明13・・新しい精神の科学2 

    逆境で生まれる新文明14・・慈悲の文明(悟りの文明)の誕生

    逆境で生まれる新文明15・・祈りの文明へ・・科学と宗教の対話

    逆境で生まれる新文明16・・祈りによる高次元の開拓 

    逆境で生まれる新文明17・・村上和雄氏の説く魂と遺伝子の法則 

    逆境で生まれる新文明18・・「サムシング・グレート」から考える 

    逆境で生まれる新文明19・・コスモス(宇宙)の一貫性 

    逆境で生まれる新文明20・・思考のすごい力 

    逆境で生まれる新文明21・・月面上の思索

    逆境で生まれる新文明22・・創造的に進化する宇宙

    逆境で生まれる新文明最終回・・「知られざる大陸」を求めて

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    誰にも「全実在」は与えられている・・小林秀雄

     小林秀雄は「私の人生観」という戦後間もなく行った名講演で「哲学は一つのシステムでたりるのではないか」と提案している。

     これは、21世紀、惑星的な知性の出現と真の叡知にあふれた哲学を構築していくにあたって、多くの示唆を与えてくれているのではないだろうか。

     この小林の提案は「知覚の拡大」に伴う「実在」中心主義と呼んでもいいし、イブン・アラビーの「存在一性論」とも相通じるものがある。

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     小林秀雄が言うように「全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている」(「私の人生観」参照)。

    「私たちの命は、実在の真っ只中にあって生きている」のだが、そのような「豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要」である。

     何故なら、普通私たちは、日常生活の要求に応じて、便宜上、この経験を極度に制限する必要があるからだ。つまり、「見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない」。 

     つまり、可能的行為の図式が上手に出来上がるという事が、知覚が明瞭化するという事である。

    こういう図式の制限から解放されようと、
    ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はあるまい。

    彼の努力は、全実在が与えられている本源の経験の回復にあるので、そこで解放される知覚が、常識から判断すれば、一見夢幻の様な姿をとるのも致し方がない。

    ベルグソンは、そういう考えから、拡大された知覚は、知覚と呼ぶより寧ろVISIONと呼ぶべきものだと言うのです。


    ・・小林秀雄「私の人生観」

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     小林が言うように、私たち一人ひとりには「全実在」がそれぞれ与えられている。

     ところが、この「本源の経験」なるものが日常生活の便宜性にかまけて、通常は極めて矮小化され、静止化されて体験されている。

     この矮小化という網を一度、捨てて虚心に「実在」に向かうとき、私たちは思わぬ光景を目撃することができる。

     画家は、小林が言うように「見る」という全身心を賭した行為を通して「実在」に到ろうとするのだ。

     従って、優れた芸術家たちは、ベルクソンが哲学者達に望んだように、「唯一の美のシステムの完成に真に協力している」ことになる。

     そのめいめいがその個性を尽くして同じ目的を貫いており、「梅原という画家のVISIONと安井という画家のVISIONは、全く異なるのであるが、互に抵触するという様な事は決してなく、同じ実在を目指す。かような画家のVISIONの力は、見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出すのである」。

     ちなみにジャコメッティという画家は森林に入ったとき、木々の方から見られているという不思議な感覚に襲われ、その感覚から脱っするために絵を描いていたという。

     つまり自分という主体から木々という対象に向かうのではなく、木々という「実在」から呼びかけるモノがあるというのだ。

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      ドイツ・ハイデルベルクでの思索


     このような「実在体験」をマズローは「至高体験」とも呼び、マルセルは「現存」とも呼称したが、芸術家だけでなく、私たちにも「全実在」は平等に与えられているのだから、その実相に推参することはできるはずなのだ。

     小林秀雄があれだけサクラに入れ込んだのも、サクラそのもの=「実在」に魅入られた体験があったからに違いない。

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     誰にも「全実在」は与えられている・・

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    小林秀雄のプラトン論・・人生の大事とは忽然と悟ること

     小林秀雄は「プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです」として独特のプラトン論を展開している。

    彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬のように、いつも同じ顔をして黙っている。

    人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。

    だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧りの知識を振り廻して得意にもなるものである。

    プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せておけばよい。

    哲学者には、もっと大きな仕事がある。

    人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡(うち)に、忽然(こつぜん)と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物というような人に誤解されやすいものにしておくというような事は、真っ平である。・・

     従って彼によれば、ソクラテスがやったように、生きた人間が出会って、互いに全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです。

     小林秀雄・・「喋ることと書くこと」

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     この小林秀雄のプラトン論は、その後、『本居宣長』を通して、独自な言語論へと発展していくのであるが、まさしく小林のやろうとしたことは、生きた人間が出会って、心を開いて対話するということにより、本物の智慧を得ることであった。

     彼の「からみ」の話はあまりにも有名であるが、彼にしてみれば全人格を賭けて問答をしていたのにすぎない。

     目的は真智を得ることであって、「からみ」は相手の狭い個我はもとより、自身の我を否定し去り、「智慧の海」へと向かうことに他ならなかった。

     小林にとって対話とは、ソクラテスがそうであったように、自他共により高次な「智慧の海」へと航海して、無私を得る道だったのではないか。

     単なる弁論術や政治家の説得しようがための演説では、「智慧の海」に至ることはできないのである。

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    ベルクソンの「精神のエネルギー」・・総集編

      これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

     本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

     特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

     この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

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    小林秀雄もこのロンドンにおけるベルクソの講演について

    詳しく紹介している.

     ベルクソンの論点は大きく三つある。

    ① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

     ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

     ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

     たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

     また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

     ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

     溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

     ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

    ② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

     ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

     ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

     同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

    ③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

     ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

    ・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
     あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
     すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

     ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

    「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

     なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

     このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

     結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

     わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。

    けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。

    それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

    Bergson

     それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

     ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

    ☆ベルクソン「精神のエネルギー」総集編☆

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    逆境で生まれる新文明・・意識革命を起こす本

    地球人にパラダイムシフトを起こして意識革命を起こす三冊を紹介しよう。 

    いずれも「意識の拡大」、物の見方の革命を促している。

     まずは「地球環境問題を仏教に問う 温暖化地獄を仏教・密教は救えるか」で、山本良一竹村牧男, ,  松長 有慶の三氏という 環境学者×宗教学者×僧侶の対談本である。

     宗教、仏教、そして真言密教は地球環境のために何ができるのだろう・・大きな問いかけに三人の識者がそれぞれの思いをぶつけており、哲学書としても一級品と見た。

     そして地球環境問題を解決する上で、今後避けて通れないのは「個人のライフスタイルの変革」であり、そのためのヒントを、仏教、密教の教義の中に探っていくのだが、環境問題と言う21世紀最大の問題に、仏教の教義、組織形態、ライフスタイルなどが改めて照らし出されてその存在意義と新しい可能性が見えてくるところが興味深い。

     思うに環境問題は、科学と宗教の垣根を超えて、人類の意識レベルを「惑星意識」にしていく可能性を秘めている。

     特に弘法大師空海の説いた「即身成仏」というコトバが、環境問題によって新たな意味と可能性をもって蘇りつつある点は注目すべきである。

     大日如来と一つになることはどういうことなのか。

     そこに咲いている小さな草花も大日如来の分身であり、自分自身ということにはなるまいか。

     とすれば、人類は自分自身でもある地球の自然を自ら破壊していることになる。

     このような「意識の拡大」なしに環境問題の根本的な解決にはならないのではないか。

     ちなみに現在の環境問題の日本のオピニオンリーダーである山本良一氏は、真言密教のマンダラ図に触発されて「環境マンダラ」なるものを考案している。
          

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     二冊目は本ブログでも繰り返し紹介してきた小林秀雄と井筒俊彦という現代日本を代表する知性、哲学者の共通項に迫った若松英輔さんの叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦である。

    この本の帯にある・・

    「哲学者は詩人たり得るか? 

    日本古典の思想性を「詩」の言葉で論じた小林秀雄――。

    古今・新古今の歌に日本の哲学を見出した井筒俊彦――。

    二人の巨人を交差させ、
    詩と哲学の不可分性に光をあてる、清廉な一冊。 」

     という言葉にすべてが言い尽くされている。

     二人の哲学的巨人を交差させ、詩と哲学の不可分性に光をあてる時に見えてくる世界・・。

     このブログでも繰り返し紹介しているが、この二人の巨人が追求したのは、存在の実相に迫り、実際に体験するとともに、それを己の文体で表現するという営みである。

     イスラムの神秘哲学者が追求した「神秘家かつ哲学者」の道をこの二人ほど極めた人はいないように思う。

     その取り扱った対象は違っても、その対象に対する迫り方はあまりにも酷似している。

     例えばギリシャの哲人たちに、二人は「実践的思索者」という「真理の探究」への燃えるような情熱を見ていた。

     この情熱はあまりに大きく、ヘラクレイトスの火の体験のようなもので、この真理への飢えにまさしく焦がれたような哲人もいたはずだ。

     観照は存在探究の道に違いないが、最初にあるのは、根源からの招きである。観照は、人間が愛する人に向かって全身を投げ出す行為に似ている、とアリストテレスは言った。

    井筒俊彦が注目するアリストテレスは「神」の解析者ではない。それを「愛慕」する実践的思索者である。

    ・・アリストテレスの「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼と安住の確信である。そこには、浄土門の阿弥陀如来を彷彿させる母性的な神の姿すら浮かび上がる。

     神秘家の本分は、神を知解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、その顕現を準備することである。

    なぜなら、「個人的救済の余徳は万人にわかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」ということこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だったからである。

     アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道であることを明示しただけではない。

    観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得ることを教えた。

    それは「人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極致」に他ならない。

    一個の存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは、世界の祝福を意味する。

    ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできないだろうか。

    『井筒俊彦--叡知の哲学』33~34頁

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     三冊目はあなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。 1秒でこの世界が変わる70の答え」。

     ひすいこたろうさんの本はほとんど読んできたが、この書はひすいさん流、「物の見方ガイドブック」の決定版と見た。

     とにかく、爆笑しながら、自分の「物の見方」が柔軟になっていくのがわかるのである。

    世界は白いキャンバスなんです。

    だからこそ、みんなが喜びを感じられるように、楽しくなるように、世界を自由に解釈すればいいんです。

    ・・どう解釈するか、認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。

    あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。

    つまりあなたこそ、世界の救世主だったのです。

    だから、神社のご神体は鏡なんです。

    神様に拝んでいるとき、鏡に写っているのは拝んでいるあなた自身です。

    あなたが変われば、

    鏡に映るこの世界も一秒で変化します。

     

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    逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の再構築

     震災後の激変の中で問われているのが、前回も触れた「新しい自己像」の再構築ではないだろうか。

     井筒俊彦博士の言う我々の実存の中心を『自我』のレベルから『自己』のレベルに移行」させるためには、意識の焦点を表層から深層へと深めていく必要がある。

     井筒博士の場合、イブン・アラビーなどのスーフィーや東洋哲学の途轍もなく広い精神的鉱脈を探りながら、深層の自己へと深めていくには共通したパターンがあることを明らかにした。

     詳しくは「イスラーム哲学の原像」という名著を参照いただきたいが、簡単に言うと、多くの哲人・神秘家に共通するのが、往相・還相の悟りへの道を歩むということである。

    井筒博士はこの中で「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図を描いている。すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置き、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

     つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

    そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

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     この意識と存在の構造モデルは、仏教の禅で言えば「十牛図」が見事に現しているように思う。

     横山紘一氏「十牛図入門--『新しい自分』への道」によると、この十牛図には「自己究明」「生死解決」「他者救済」という人生の三大目的が現されているという。

     ちなみにこの悟りのマップとも言うべき「十牛図」では、牛に象徴される悟りを求める少年が牛の足跡を見つけ、居場所を発見し、つかまえ、飼い慣らし、牛の背に乗って家に帰ってゆくプロセスを前半の6段階が表している。(①尋牛②見跡③見牛④得牛⑤牧牛⑥騎牛帰家)

     が、⑦ の「忘牛存人」になると一転してその“ 悟りの象徴” であるところの牛が消えてしまい、⑧ の「人牛倶忘」に至っては牛のみならず人も忘れ去られて全くの白紙が描かれている。そして⑨ の「返本還源」では川が流れ、花が咲く、自我を超えた自然の姿が描かれ、⑩の「入廓垂手」(にってんすいしゅ)では世間の路で少年と老人が出合うシーンが描かれている。

     つまりこの「十牛図」では、“頓得の悟り”からいろいろの段階を経て悟りが深まっていく過程が図形化されており、悟り= 牛を追いかけていたことも忘れて無我の境に入るとともに自然や人との一体感を自覚することが“ 本当の悟り” であると示されているのである。

     横山氏の言葉を借りれば、この「十牛図」には三種類の自分が描かれているという。

    1.  偽りの自分
    2.  新しい自分
    3.  真の自分

     とすれば、大震災後の激変は、「偽りの自分」を脱ぎ捨てて「新しい自分」を発見し、さらには宇宙と一つの「真の自分」を見いだす「悟りの機会」を与えたとも言えるのである。

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    逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の誕生

     東日本大震災などで明らかになってきた新潮流は、コミュニティの拡大や「自然と共生する文明」へのシフトに伴う「新しい自己像」の誕生である。

     他ならぬ私たち人類の間で「全ては一つ」という新しい世界観ともっと拡大した自己像が誕生してきているのではないだろうか。

     この「新しい自己像」アーヴィン・ラズロ「人類の意識の進化」とも呼んでいる。

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     現在の地球は、今回の大震災はもとより、地球環境問題、頻発するテロ、異なる宗教的信条の違いによる軋轢、文化、人種、肌の色、言語、政治的信念の違いによる摩擦など、まるで沸騰した一つの鍋の中で全ての問題が煮立っているような状況である。

    また今回の震災では世界中の人々の善意が集まるというポジティブな面も見られる。

     まして発達したインターネット網がそれらを一つにつないでより沸騰する速度を高めている。

     これらに加えて、宇宙の根本法則である進化の波動が、この悩める惑星には宇宙線のように無数に降り注いでいるように見えるのだ。

     このような地球温暖化も含めて加速度的に出来事を早めている動きは、実はラズロの云う「人類の意識の進化」も促しているのではないだろうか。

     日本が産んだ世界的哲人の一人、井筒俊彦博士は、このようなグローバル化、地球的社会にあっては、何よりも人間そのものを作り変える必要があると説いておられた。

    それ(地球社会化)に内在する深刻な危険をはっきり意識しながらも、

    しかもなお、我々が人類文化のグローバラゼーションの理念を信じ、『地球社会』の理想的な形での形成に向って進んで行こうと望むのであれば、

    何よりも先ず我々は、我々自身を作り変えなければならない。

    すなわち、我々の実存の中心を『自我』のレベルから『自己』のレベルに移行させなければならない。

    あるいは、より正確に言うなら、『自我』を『自己』の表層的一部として、それを『自己』の多層構造全体のなかに定位しなおすことによって、完全に変質させなければならないでありましょう。 

    井筒俊彦博士『意味の深みへ』

    「人間存在の現代的状況と東洋哲学」から

     簡単に言えば、エゴという狭い自我から、セルフという拡大した自己へと私たちの実存の中心を移行させる必要があるのである。

     この転換を図る上で、参考になるのが井筒俊彦博士の「イスラム哲学の原像」や横山紘一氏の「十牛図入門--『新しい自分』への道」などの唯識論である。

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    イブン・アラビーの「存在一性論」

      井筒の三角形モデルの頂点は、神秘家・哲人たちで様々な表現をされてきた。

     例えば老荘の「道」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」「空」、禅の「無」などである。

     イスラムではスフラワルディーは「光」と呼び、イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。

     ここで云う「存在」とは存在者という意味ではなく「宇宙に遍在し十方に貫流する形而上学的生命的エネルギー」のことを指すという。

     この宇宙に遍満する「生命的エネルギー」が自己限定、自己分節していくことによって、すべての存在世界が展開していくというのだ。

     従ってイブン・アラビーの「存在一性論」にあっては、例えば「ここに花がある」とは言わない。「存在が花する」「ここで存在が花している」というような哲学的なメタ言語を使うことになる。田中さんであれば、「存在が田中さんしている」といった奇妙な日本語になる。

     三角形の頂点から見ると、世界が全く違うものとして見え始めるのだ。

     ちなみにイブン・アラビーなどのイスラムの神秘家たちは次のような考えを持っていた。

    「哲学の訓練を経ない神秘家になんていうものは酔っ払いにすぎないし、他方、神秘主義的体験のない哲学者なんていうものは、概念的にしかものを考えることのできない明き盲みたいな合理主義者であって、存在の真相などわかりっこない」

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         「存在がスミレしている」?

     

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    弁栄聖者の「存在一性論」

     井筒俊彦の 「イスラーム哲学の原像」には、「意識と存在の構造モデル」と題して、単純な三角形の図が描かれている。

     すなわち絶対無としての存在が三角形の頂点として上に置かれ、感覚的、知覚的事物が底辺として下にくることになる。

     つまり多くの哲人・神秘家たちは三角形の向かって左側の辺をひたすら登って、意識と存在のゼロ・ポイントを目指そうとする。

     そして遂に絶対無の頂点を極めた哲人たちは、今度は右側の辺をひたすら降りて今度はコトバで「無から有」を生み出そうとする。

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     井筒俊彦

     例えば弁栄(べんねい)聖者といえば、徹底した念仏によって如来とは「一大観念」であり、「一大心霊」との悟りに達した近代日本の生んだ偉大な宗教家・哲人である。

     そしてその心霊とは「光明」そのものであるとして、「光明会」を創始したのであるが、あの数学者の岡潔も私淑しておられたのであり、その悟りに基づく広大な観念哲学は、若松英輔さんが言うようにイブン・アラビーの世界を彷彿とさせるものがある。

     若松さんの引用している弁栄の言葉とその説明を紹介してみよう。

    宇宙唯一の法身の手によりて成生したる万有なれば大は宇宙全体より太陽も地球も所有万物もいかに微細なる一切の個体は一大法身の分身なる個々なれば、個々は小法身なり。

    ・・中略・・しからば有る人が個法身の万物いかに微細なるも神を宿し能わざるほどの微細なるものなしと。(「万有生起論」)

    ・・イブン・アラビーが超越者を「存在」と呼ぶように、弁栄は「みおや」「法身」あるいは「神」と書く。

    「神」の一語すら、一者の自己顕現・自己限定・自己分節的表現でしかないことを示す彼の強い意図がある。

    『井筒俊彦--叡知の哲学』第10章「叡知の哲学」428~429頁

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    弁栄聖者

     弁栄は「一大法身」を「一大心霊」とも呼び、この心霊の心に浮かび上がってきたところの観念が宇宙万物として造化・展開していくのである。

     しかも「小法身」たる私たちも「念仏三昧」により、「一大法身」たる「ミオヤ」と一つになることができるという。

     弁栄聖者は24歳の時に筑波山に二ヵ月こもって日夜念仏をとなえる厳しい修行をしている。

     米麦そば粉だけで飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること毎日徹底的に実践遂に「一心法界三昧」の境地に出たというのである。

     弁栄聖者によると、「一心法界三昧」とは、この宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだという。

     我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるが、「念仏三昧」の境地にはいるとき、自己と環境、自分と他人、さらには時間と空間の制限などあらゆる二元性を超えた世界に出ることができるという。

     この「念仏三昧」によって、自己の心が二元性を超えた「一大法身」の世界と一つになったのが「一心法界三昧」だというのである。

     まるで井筒俊彦の語るイブン・アラビーの「存在一性論」を聴いているようではないか。

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      一大法身の説法する世界・・

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    小林秀雄のベルクソン論・・言葉の帳をとる

     言葉の帳(とばり)は、殆ど信じ難いほど厚い。・・帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在している。・・ベルクソン論「感想」

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     小林の論じたベルクソン論のテーマの一つが、生活の利便性のためにつくられた「言葉の帳」をとって実在を如何に観るか、ということであった。

     私達は日常生活の地盤のうちで、物に対しても外側に、私達自身に対しても外側に生きる事に慣れ切ってしまっている。

      •  この慣性を打ち破って、対象そのものと一つになること。

       

    •  「言葉の帳」で覆うのではなく、知覚の拡大により本物に触れること。
    • Kobayashigoho


     小林はこのベルクソンに習ったことをそのまま徹底的に実践しようとした。

     それを実践するにあたって、見本となるのが芸術家たちだ。

     「詩人や芸術家とは、この帳が、薄くなり、透明になった人達」(感想)であり、小林の批評とは言葉や認識の帳をとって、実在に推参することであった。

     この帳は厚いもので、自然や私達だけを覆っているのではない。

     近代の人間がその価値観で帳をつけた歴史上の天才達にもあてはまる。

     本居宣長は、天才的な文献主義者であったが、どうしてあのような幼稚な信仰を持つに到ったのか・・と云った“近代の帳”をかなぐり捨てて、天才の肉声に迫ろうとしたのがあの大作『本居宣長』であった。

     それはとにかく、今年は一度、「言葉の帳」を捨てて、直に周囲のものを観る冒険に旅立ってみるのもいいのではないだろうか。

     何も遠くに行く必要はない。近くの神社に詣でて、そこにある竹林や古木を虚心に観ることも、りっぱな「知覚(近く)の冒険」ではないだろうか。

     Fushi

    近くの神社で。節から芽は伸びる。

    逆境も新たな芽を伸ばす絶好の機会。

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    «「地球外生命体」の可能性とベルクソンの生命論