悠然たるネヴァ河と小林秀雄

1963年、小林秀雄は文士仲間と三週間ほどのソ連(当時)旅行に出ている。

 この時の印象深い思い出について、安岡章太郎氏が悠然として渾然たるネヴァ河」と題して次のように書いている。

 エルミタージュ美術館に出掛ける前夜、通訳のリヴォーヴァさんが、「いよいよエルミタージュですよ、ようく休んで疲れを取って置いてね」という。「わかりました」と佐々木さんが謹厳にこたえる。そんなヤリトリを奥の部屋で聞いていた小林さんは、「なに、エルミタージュ? どうせペテルブルグあたりに来ているのは、大したものじゃなかろうよ」と、甚だ素気ない様子であった。

 翌朝、その小林さんの姿がホテルの中に見えない。われわれが狼狽気味に部屋を探していると、「やあ失敬」と先生があらわれた。

「朝起きぬけに一人でネヴァ河を見てきた」とおっしゃる。「ネヴァ河ですか」私たちは唖然とした。小林先生の地理勘は甚だ弱くて簡単な道にも直ぐ迷われるからだ。

「しかしネヴァは、じつに好い河だ、悠然としていて、あれこそロシアそのものだ」

だが私には、その悠然渾然たるものは、河の流れよりも、寧ろ先生自身の人生態度にあるように思われた。

  これは私の勝手な想像だが、小林はドストエフスキーの『罪と罰』の主人公、ラースコリニコフになりきってネヴァ河を観ていたのではないだろうか。

 河の悠然たる流れは、いつしかラースコリニコフの重苦しい黙想につらなり、小林の中に“精神の極北”まで行った主人公の魂が甦ってきたのではないか。

 ロシア的とは、どこどこまでも限度を踏み越えていく野人性にある。

 この野人性を精神の世界において徹底して追求したのがラースコリニコフであった。

 小林がこの主人公の思索と魂の復活にあれだけ肉薄できたのも、実は彼自身の中にロシア的なものがあったからに他ならない。

 読者の家族の皆様へ。

 興味のある方は以前、書いたドストエフスキーに関する感想もご参照下さい。 

 また「叡知の哲学」の総集編も参考にして下さい。

 

小林秀雄全集〈第6巻〉ドストエフスキイの生活 Book 小林秀雄全集〈第6巻〉ドストエフスキイの生活

著者:小林 秀雄
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「精神のエネルギー」について・・8

 前回紹介した映画「祈りーサムシンググレートとの対話」の監督、白鳥哲さんは、今こそ、人類はパラダイムシフトする必要がある、と訴えている。

 ベルクソンの説いた「精神のエネルギー」とも相通じるものがあるので、少し長いが白鳥監督のメッセージを紹介したい。

2011年、世界人口は七十億を突破しました。驚異的なスピードで人類の人口は増えて続けています。そのうち飢餓人口は十億人を突破し、一方で、日本では年間二千万トン以上の生ごみが捨てられています。そして、地球上の生物が絶滅している数が年間四万種以上。一時間当たり4.6種の生命が絶滅しているのです。同時に史上最大規模の自然災害が多発しています。日本では2011年3月11日にはマグニチュード9・0の巨大な震災では2万人にも及ぶ大震災を経験しました。韓国の洪水、チリ火山の噴火、タイの洪水・・・。

これまでのようなエゴに根差した「自分さえよければ」「人間さえよければ」という唯物主義的価値観から大きな転換が求められているのです。私達の生き方そのものが問われているのです。

変わらなければならないのです。

今、欧米のホリスティック科学の世界では、祈りを含めた意識の力についての研究が応用段階に入り、実際に医療の現場などで使われだしてます。そして、一人一人の意識の集まり・・・集合意識そのものが地球の磁場と連動する事が確かめられているのです。

私たちのあり方が地球に影響しているのです。
これまで宗教の世界の事だと言われてきた「祈り」を思い出す時期に来ているのです。

エゴではない、地球の調和を目指した「祈り」が出来たら人類は大きく変わると思います。


この作品が少しでも多くの方々の心に届き、
人類の意識転換へ貢献する事を心から願ってやみません。

新しいパラダイムがシフトする事をこの作品を通して目撃する事になるのです。

41jhotjyk9l__ss500_

      白鳥監督の新著

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「精神のエネルギー」について・・7

 村上和雄・筑波大学名誉教授が最近、注目されているのが、「祈り」という鍵であり、特に「感謝の祈り」には私達人間の無限の可能性の「スイッチ」を「オン」にする力があるそうである。

 とりわけ米国においては、この「祈り」「精神のエネルギー」を活発にして、時空を超えて治病にも役立つことが実証されつつあるという。

 下記のように村上和雄・筑波大学名誉教授のパラダイム・シフト=「ワールド・シフト」は「スイッチ・オン」ということであるが、これは何も遺伝子の世界だけに限定する必要はないだろう。

 「祈り」によって私たちの魂にもともとある「直観」という認識方法に「スイッチ・オン」する・・

 「祈り」によって「サムシング・グレート」からのメッセージに「スイッチ・オン」する・・

 「祈り」によって古代から培ってきた「叡知」に「スイッチ・オン」する・・

 「祈り」によって「なでしこジャパン」のように「あきらめない心」に「スイッチ・オン」する・・

  このように「祈り」は、「無限の宝庫」を開く鍵でもあるようだ。

 ちなみに村上教授をモデルにした映画「祈り--サムシンググレートとの対話」がこのほど完成した。興味のある方は白鳥哲監督のサイト「世界は祈りで一つになる」という本も参照してみてください。

「祈りーーサムシンググレートとの対話」予告編

 Wsmurakamikazuo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「精神のエネルギー」について・・6

 ジル・ボルト・テイラー博士によると、「深い心の安らぎ」を見つけるには、やはり自分を超えた無限のエネルギーなるものとつながる必要があるそうだ。

 その方法には、芸術活動や瞑想、「祈り」も有効であるし、テイラー博士は積極的に今ここにある素晴らしさに気づく「感謝」も勧めている。

 テイラー博士の興味深い体験は「TED」という著名な学者や成功者による講演集でも見ることが出来る。

ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作 

Hqdefault

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「お金の科学」総集編・・世界は思いによって作られる

最近、読んだ成功哲学系の本ではジェームス・スキナーの「お金の科学」が群を抜いていたように思う。

この本の感想を下記のように書いたが、

改めて思うのは

ジェームスの天才は、単なる成功するための技術ではなく、

マインドそのものを変える戦略を持っているところである。

自分のマイントがどんな癖を持ち、

どんな前提で生きているのか。

そのマインドの違いの違いが

圧倒的な差を生むことを

彼は熟知している。

世界の中に自分が生きているのではない。

自分のマインドが世界を創造しているのである。

 ヒンズー教の教えによれば、万物はさまざまな形をとる「ひとつの物質」から創造される。

 

そして、その形はいずれも一過性であり、人の意志によって変えられると言う。

 

・・量子力学の教えによれば、我々は「無限の可能性の場」に生活していると言う。・・ジェームス・スキナー

 

【CD-ROM付】お金の科学〜大金持ちになる唯一の方法〜 Book 【CD-ROM付】お金の科学〜大金持ちになる唯一の方法〜

著者:ジェームス・スキナー
販売元:フォレスト出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

★お金の科学・・アーカイブ編★

☆「受け取りの法則」

  • お金の科学・・ 「月と太陽」
  • お金の科学・・「人生の鏡」
  • 「お金の科学」・・「生きる秘訣」とは、「与える」こと
  • 「お金の科学」・・「欠乏マインド」から「豊かさマインド」への転換
  • お金の科学・・他人を助けたいという気持ち
  • お金の科学・・「大企業を作る方程式」
  • お金の科学・・「億万長者の質問」
  • お金の科学・・「自分の不満足」から価値を創造
  • お金の科学・・「人のために作り出す価値」
  • お金の科学・・感動レベルを上げる
  • お金の科学・・えたものを受け取る
  • お金の科学・・「受け取りの法則」
  • ☆プラス知性で世界を変える

    お金の科学・・「磁石」による「魂の作用」

  • 金の科学・・「プラスの状態管理」
  • お金の科学・・「プラスの態度」
  • お金の科学・・「プラス言語」の力
  • お金の科学・・プラス知性
  • お金の科学・・すべては魔法である
  • お金の科学・・マイナスを消せるのはプラスだけである
  • お金の科学・・「物質はいかなる形にも自己組織化できる」
  • Rimg0132

     ハイデルベルクで「富」について考える

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    小林秀雄の鑑賞道・・

    鑑賞という事は、一見行為を拒絶した事の様に考えられるが、実はそうではないので、鑑賞とは模倣という行為の意識化し純化したものなのである。

    救世観音の美しさは、僕等の悟性という様な抽象的なものを救うのではない、僕等の心も身体も救うのだ。

    僕等は、その美しさを観察するのではない、わがものとするのである。

    そこに推参しようとする能力によって、つまり模倣という行いによって。

     

     これは、「伝統」という小林秀雄のエッセーからの引用だが、小林秀雄にとって絵画や美術品などの「鑑賞」という行為がどのようなものであったか、よく解る文章である。

     彼のような徹底した「鑑賞」にあっては、自分と作品の境界はなくなり、観察するのではなく、まさに一体になって「わがものにする」ことに力点が置かれている。

     例えば、小林は富岡鉄斎を四日間ぶっ通しで、朝から晩まで250余の作品を見続けたというから尋常ではない、そこには何か魔的なものすら感じられる。彼の鉄斎論を見てみよう。

     日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なしに、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対することは出来なかったのである。

     

    彼はこの態度を率直に表現した。

     

    讃嘆の長い歴史を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未踏の道を、彼は発見した様に思われる。

     

    自然と人間とが応和する喜びである。

     

    この思想は古い。

     

    嘗て宋の優れた画人等の心で、この思想は既に成熟し切っていた。

    鉄斎は、独特な手法で、これを再生させた。

    彼は、生涯この喜びを追い、喜びは彼の欲するままに深まった様である。

    悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、そようなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた。

    「鉄斎Ⅱ」

     

      鉄斎の喜びをわがものにした小林の批評は「鑑賞道」とでも呼びたい、厳しくも喜びにあふれた行から生まれてきたのであり、頭の中だけで巧んだものは一つもないのだ。

    富岡鉄斎 (新潮日本美術文庫) Book 富岡鉄斎 (新潮日本美術文庫)

    販売元:新潮社
    Amazon

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「精神のエネルギー」について・・5

     前回、紹介したジル・ボルト・テイラー博士によると、自身の脳卒中の体験により、「深い心の安らぎ」を見つけたという。

     養老孟司さんとの対談で彼女は次のように言っている。

    博士 脳卒中を起こした朝のCTスキャンの結果や症状などから、わたしの大脳の左半球が通常の機能をはたしていなかったことは医学的に明らかだと思います。

     右脳の機能についてわれわれが理解していることを考慮に入れれば、わたしの「涅槃(=ニルヴァーナ)」の体験は、左脳の機能停止と、左脳の右脳に対する支配が崩れたことによるしかないと思われます。

     博士に言わせれば、その体験は、宇宙のエネルギーとの一体感にあふれ、宗教的な悟り、つまり涅槃に通じるものがあったというのである。

     この「内なる安らぎ」を体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になることである。

     左脳マインドはいつも過去か未来について思いめぐらせる「する」DOING機能であるのに対して、右脳マインド「いま、ここ」に焦点をあてる「ある」BEING機能である。

     博士によると、西洋の社会はとりわけDOING機能を奨励・教育してきたことから、右脳マインドへの切り替えが困難になっているという。その意味ではカット・ドミンゴ博士が言うように「悟りは、学ぶことではなく、学んだことを忘れること」なのだ。

     そして大切なのは、この二つの回路の切り替えを自由自在に操ることができる力を吾々人類はもともと持っている・・ということなのだ。

     そこで博士は次のように訴える。

    ・・「今」と「ここ」にしかない、安らかな右脳マインドの意識と人格を思い起こす様々な方法を、あなたにも教えてあげたい、と。・・「奇跡の脳」・・続く

    Ph001_s

       本物の脳を持つジル・ボルト・テイラー博士

     

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「精神のエネルギー」について・・4

     遺伝子研究の村上和雄・筑波大学名誉教授は、魂の領域や神の領域まで突っ込んだ論を展開しているが、これから人類は「精神のエネルギー」に注目する「知ラレザル大陸」(ベルクソン/「道徳と宗教の二つの源泉」)も視野に入れた「包括的なパラダイム」を構築していく必要があると思う。

     ベルクソンが言うように近代科学は計量・分析という手段によって「物質的大陸」というごく限られた対象だけを相手にしてきたが、それ以外の心身を超えた「精神的エネルギー」、つまり魂のことは無視してきた。

     しかしながら、人類が真に宇宙の仲間入りをしていくためには、魂の問題や神の問題も避けては通れないだろう。

     なぜなら、「この宇宙がどうして出来て、なぜ私たちがここにいるか」という本源的な問いかけに答えることができるようになるまでは、本当の意味でのユニバーサルな全体観を確立することはできないからだ。

     その意味では、最先端の科学の研究と古代からある形而上学や東洋の精神世界との符合は興味深いものがある。

     たとえば脳科学者のジル・ボルト・テイラーさんの「奇跡の脳」という著作は、37歳の時に脳卒中に倒れた女性脳科学者の再生と気づき=悟りの物語が書かれており、大変興味深いものがある。

     テイラーさんの言葉を借りるならば、脳卒中で「左脳マインド」が停止したときに、「右脳マインド」にスイッチがオンになって「深い心の安らぎ」を感じたというのである。

    脳卒中により、わたしは内なる自分を発見しました。

    ほんの少し、考え方や感じ方を変えるだけで、深い心の安らぎが得られることに気づいたのです。

    安らぎを体験するといっても、人生がいつも歓喜に満ちあふれている、という意味ではありません。

    あわただしい人生の、あたりまえの混乱の中にあっても、心の歓びに触れることができるという意味なのです。・・新潮文庫「奇跡の脳」

    ・・次回に続く

    Jill_books

          

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「精神のエネルギー」について・・3

      ベルクソンが言う「新しい精神の科学」の可能性とは、一言で云ったら、近代科学がもっぱら物質的計量に集中して、切り捨ててきた広大無辺な精神の領域の回復にあった。

      わたしはときどき、もし近代科学が数学から出発して力学、天文学、物理学、化学の方向に向かうのではなく、またすべての努力を物質の研究に集中するのではなく、精神の考察からはじまったとしたら--もしたとえばケプラーやガリレオやニュートンが心理学者だったら、どうなっていただろうかと、想像してみたことがあります。

    きっと、今日わたしたちがまったく考えられないような心理学ができていたでしょう--それはガリレオ以前の現在の物理学を想像できなかったのと、同じことでしょう。

    ・・ベルクソンのロンドンにおける講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」から

     つまり、物質科学ではなく、心霊学や心理学などの精神科学に研究が集中していたら、全く別の近代科学の流れもできたのではないか、とベルクソンは想像しているわけである。

     そして「精神のはたらきの最も一般的な法則が(力学の根本原理が実際に発見されたように)発見されると、人々の研究は純粋な精神から生命に移ったことでしょう」と云う。

     それは現在の生物学とは全く違った活力論的な生物学で、生物の形態の背後に、それらの形態にあらわれる目に見えない内的な力を求めるものでしょう。

    この力についてはわたしたちはどうすることもできません。

    それは現代の精神科学がまだ幼年期にあるからです。

    ・・そしてもし近代科学がはじめにものの他方の端をつかんでいたとしたら、活力論は不毛ではなかったことでしょう。

    この活力論的な生物学と同時に、生命力の不十分なところを直接に治療する医学が起こったことでしょう。

    それは結果でなく原因を目ざし、表面でなく中心をめざす医学です。

    暗示による療法、もっと一般的に言えば精神への精神の影響による療法が、わたしたちに推測できないような形態をとって、大きな役割をつとめたことでしょう。

    こうして精神のはたらきの科学がつくられ、発展したことでしょう。

     このようなベルクソンの想像は決して空想ではない。

     事実、21世紀においては、宇宙的な視野から生命について考える「活力論的な生物学」と精神の影響を重視した新しい医学の潮流が生まれつつあるのである。興味のある方は下記のサイトを参照下さい。

    宇宙的、地球的規模で生命を考える

    Suiheitomato520w

     一つの苗から一万個以上のトマトが・・
     生命には本来、無限の可能性がある
     

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「今なぜベルクソンなのか」

    「今なぜベルクソンなのか」をリニュアルしています。

     これまでのベルクソン論や関連サイトにもアクセスできるようにしております。

     またこのブログにおけるベルクソンに関する拙稿もまとめて見ることができます。

      今なぜベルクソンか

         Rimg0129_2

     またこのブログの基本論文をPDFファイルでアップしております。

     ベルクソン・ルネッサンス

    Rimg0164

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    ☆「精神のエネルギー」について・・2

     ベルクソンが「ロンドン心霊研究会」で行った講演・・「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」が今読んでも画期的なのは、近代科学の性格や問題点を見事に指摘しているところである。・・「精神のエネルギー」所収

     ベルクソンの弟子とも言うべきガブリエル・マルセルが現代文明という技術社会に対して一貫して批判し続けたのも、ベルクソンの科学観に基づくところが大きかったかもしれない。「マルセルの文明論」に関心のある方は小林秀雄との対談を再現した下記の連載を参照してみてください。

      小林秀雄とガブリエル・マルセルの対話

     さて、ベルクソンの科学論に戻ると、「近代科学は数学の娘」であり、観察や実験という方法によりながらも、その「経験的方法」を「すべての可能な方向に適用するよりも、むしろただ一つの点すなわち計量に集中させたことであります」という。

    近代科学は、代数学が実在を包みこんで自分の計算の網にかけるだけの力と柔軟性をえた日に生まれました。

    まず天文学と力学が近代人に数学的な形をあたえられてあらわれました。

    つぎには物理学--同じく数学的な物理学が発展しました。

    物理学が化学を起こしましたが、この化学も計量にもとづき、重さと体積の比較にもとづいています。

    化学のあとは生物学で、これはたしかに数学的な形がないし、そういう形をとりそうでもないのですが、それだからといって、生物学が生理学の仲介によって、生命の法則や化学や物理学の法則に、すなわち間接には力学の法則に還元しようとしていないわけではありません。

    だから結局のところ近代科学はいつも理想として数学に向かっています。

    すなわち近代科学は本質的に計量を目ざし、計算がまだ適用できないところでは、そして対象の記述や分析にとどまらなければならないときには、あとで計量できるようになる方向に向かおうとするのです。

     ベルクソンに言わせれば、近代科学が悪いというのではなく、それが数学を母親として、私たちの広大無辺な経験を「計量」という方法によってごく狭い経験に狭め、独特な世界観を構築してきたということを俯瞰しておく必要があるというのである

     この「計量」という方法にゆだねられない精神現象もそれと同等で計量できる現象に置き換える必要がある。

     前回触れた意識と脳の関係でも、近代科学においてはまず何よりも目に見えて計量できる脳の動きが心の動きと同等であるとして研究するほかはないのだ。

     もっと言うと、計量できないテレパシーの体験例やスピリットからの通信例は、近代科学の性質上、最初からその圏内からはじかれることになるのだ。

     ベルクソンはこの近代科学の性質・特徴を明らかにしながら、さらに「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

     時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって 時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって
    販売元:セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)
    セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)で詳細を確認する

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    ☆「精神のエネルギー」について・・1

     これからスピリチュアルな新文明を構築していく上で、ベルクソンの「精神のエネルギー」という名著は、今でも参考になるところがたくさんあり、決して古くはない。

     本書は主にフランス以外の国で行われた講演集で構成されているが、いずれも「心と体」の関係に言及しながら、それを超えた「精神のエネルギー」や「来世」の存在に言及している。

     特に有名なのが、1913年5月28日にイギリスの「ロンドン心霊研究会」で行った講演「生きている人とのまぼろし」と「心霊研究」である。

     この講演の中でベルクソンは、心的なものは脳の動きの「副次現象」とする心身平行論に根本的に反省を求め、脳を超えた「精神のエネルギー」があることを検証していく。

     ベルクソンの論点は大きく三つある。

    ① 脳は生活に注意を向ける器官であり、記憶の濾過装置や遮蔽幕にすぎない。

     ベルクソンは失語症の丹念な研究から、記憶などの精神活動には、たしかに物質的随伴物がないわけではないが、それは精神活動のごく一部を描くものにすぎないことを明らかにした。

     ベルクソンの考えによると、「脳は過去の表象やイメージを保存しません。脳はただ運動を起こす習慣をたくわえておくだけです」という。

     たとえて言うならば、「脳の現象と心的生活との関係は、オーケストラの指揮者の身ぶりと交響曲との関係」のようだという。つまりどんなに指揮者ばかりを見ていても、肝心の交響曲は聞こえてこないというわけである。

     また脳は精神のはたらきに道をつけるが、その働きに限界もつける。それは私たちが左右に目を向けることを妨げ、うしろに目を向けることも妨げる。脳はいつも私たちが進むべき方向に、まっすぐ前を見ることを欲している。

     ところが、その生活に注意を向ける器官である脳の濾過装置がきかなくなることがあり、その時、私たちはその背後にある膨大な記憶の海に直面することになる。

     溺れたり首がしまったりしてから生命をとりもどした人が、一瞬間に自分の過去の全体をパノラマのように見たと語るのを、あなたがたは聞いたがあるでしょう。ほかの例をあげることもできます。

     ・・谷底へすべり落ちる登山者や、敵にうたれて死ぬと感じる兵士にも、同じようなことが起こります。これは、私たちの過去の全体がいつも記憶の中にあって、それを思い出すには、うしろをふりかえりさえすればよいということです。

    ② 意識は脳の機能ではなく、むしろ脳を超えて存在している

     ベルクソンは前述の心身平行説に根本的に疑義を呈する。「自然は脳の表皮がすでに原子や分子の運動ということばで表現したことを、意識のことばで繰り返すようなぜいたくはしなかったはず」である。脳を見ると、それに対応する意識に生じたすべてを読み取れることを主張することは、偏った先入観に基づいている。

     ちなみに「心と体」と題した別の講演では、釘と衣服の比喩が使われている。つまり、釘にかけてある服は釘をぬけば落ちて見えなくなる。また釘が動けば衣服もゆれる。釘の頭がとがりすぎていれば、衣服に穴があき、やぶれる。そうだからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているのではなく、釘が衣服に等しいのでもない。ましては、釘と衣服が同じであるわけはないではないか。たとえ釘がなくなっても、衣服はちゃんと別のところに存在している。

     同じように、意識が脳にかかっていことは意義はないが、決してその結果として脳が意識の細部のすべてを描くことにはならず、意識が脳の機能であることにもならない。

    ③ 「精神のエネルギー」は「心と体」の関係を超えて遍満している

     ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、精神感応の話題になったことがあった。そこにはあるフランスの名高い医学者もいて、聡明な、ある夫人の話をしたというのである。

    ・・この前の戦争の時、士官の夫が遠い戦場で戦死した時、その夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれた光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。
     あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視やテレパシーなどがあったと結論されるが、その場合ただ一つのことが忘れられている。
     すなわち多くの妻は、自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。つまり沢山の正しくないまぼろしもあるわけで、どうして正しいまぼろしの方だけが注意されて、他の場合の事は考慮されないのか。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう・・

     ベルグソンは横でそれを聞いていたが、そこにもう一人若い娘さんがいて、ベルクソンの所に来てこう言った

    「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思われます。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と。ベルグソンは、「正しかったのは若い娘で、誤っていたのは大学者でした」という。

     なぜなら、その医者は学者としての方法論にとらわれるあまり、「現象の中の具体的なものに目をつぶっており」、彼はいつのまにか、問題を具体的なものから「その話は正しいか、正しくないか」という抽象的な議論に置き換えてしまっている。

     このようにベルクソンは、テレパシーなどの精神感応現象や透視などについての切実な体験について理解を示すとともに、歴史学と同じように多くの証人の発言や記録で成り立っている心霊学の立場に理解を示すのである。

     結論として、ベルクソンは「精神のエネルギー」が「心と体」という関係を超えて、広く遍満しており、テレパシーなども十分可能だとするのである。

     わたしたちはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はたえず電化され、わたしたちは磁気の流れの中をまわっています。けれども何千年のあいだ何百万人もの人が電気の存在を知らずに生きていました。それと同じように、わたしたちはテレパシーがあるところを、それと気づかずに通りすぎて来たかもしれないのです。

     それにしても、なぜ人類はおびただしい「テレパシー」の証言や死者からの通信などを非科学的なものとして批判し、認めてこなかったのか。

     ベルクソンは、その要因を近代科学の方法と特徴に求めるとともに、「新しい精神の科学」の可能性について言及していくのである。

    Bergson

     

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「至高体験」への道6・・小林秀雄の場合

     桜好きの小林秀雄は春になると、弘前城址や高遠城址の桜、甲州山高実相寺の神代桜など、有名な桜の木を愛でに日本各地を旅していたと云う。 

     エッセー「花見」では、「文芸春秋社」の講演旅行で東北を旅したことが記されている。

     弘前の桜が目当てであったが、山形県の酒田の宿で独りで酒を飲んでいた小林は、講演前の一時に、中川一政が伊達政宗の漢詩と源実朝、源頼政の桜の和歌を並べて書いた書の額を鑑賞する。

     この三篇の詩を通して三人の武将の数奇な人生を見事に描きながら、話は一転、信州高遠の「血染めの桜」を見に行った時の感想に移る。

     小林のこのエッセーは、むしろ「抒情詩」として味わった方がいいようだ。

     そこには桜との出会いを通して、湧き上がる旅情が見事に描かれており、「至高体験」という我を忘れる体験を見て取ることもできるのだ。

     行った時には、盛りを過ぎていた。それでも、花は、まことに優しい、なまめかしい色合であった。

    血染めと聞いてすさまじい色と思ったのも、未だ花を見ぬ時の心だったようだ。

    来て眺めれば、自然に、素直に生まれて来た名とも思える。

    人々は、戦の残酷を忘れたい希いを、毎年の毎年の花に託し、桜の世話をして来たであろう。

    桜は、黙って希いを聞き入れて来たと思える。

     酒田からさらに北上した弘前城の桜は見事な満開であり、「背景には、岩木山が、頂の雪を隠して、雄大な山裾を見せ、落花の下で、人々は飲み食い、狂おしいように踊っていた。実に久しぶりの事だ。こんなお花見らしいお花見は、私の記憶では、十二三の頃、飛鳥山に連れて行かれた時までさか上らないと見つからない」。

     その夜も小林は、新築の立派な市民会館で、「今日は、結構なお花見をさせて戴きまして・・」と言って、文化講演とやらに全くそぐわない気持ちになってしまう。

     外に出ると、「ただ、呆れるばかりの夜桜」が広がっているではないか。

     花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。

    「狐に化かされているようだ」と傍らの円地文子さんが呟く。

    なるほど、これはかなり正確な表現に違いない。もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。

    私は、そんな事を思った。何かそういう気味合いの歌を、頼政も詠んでいたような気がする。

    この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。

    花やかへりて我を見るらん、--何処で、何で読んだか思い出せない。

     

     ちなみに清春の白樺美術館(山梨県長坂町)の敷地内には小林の愛した桜が移植されている

    「小林秀雄の桜」=下写真
    (同美術館のホームページより)

     Sakura1

    「桜をこよなく愛された小林秀雄先生は、

    清春の見事な桜をごらんになり、

    ここへ芸術村をつくるよう薦められ、

    清春芸術村が誕生しました。

    この枝垂桜は、

    このことを末永く記念するため、

    鎌倉の小林邸からここへ移植したものです」

    ・・白樺美術館のホームページより

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「至高体験」への道5・・ドストエフスキーの場合

     ドストエフスキーがシベリアに4年ほど流刑になっていたことは、有名な話である。

     その間の消息は彼の『死の家の記録』に詳しいが、彼はそこで「至高体験」なるものをしていたのではないだろうか。彼は失意のどん底の中で確かに「新しい人間」を発見したのだ。

     その一つの証拠がシベリア流刑後に生まれた名作『罪と罰』である。

     この名作は、単なる悪いことをした罪人の懺悔の物語ではない。

     如何に生きるべきか・・という激しい問いかけにいかれてしまった男、ラスコーリニコフの魂の更生の物語なのである。

     私は彼がシベリアの地でソーニャとともに丸太に腰掛け、大平原を見渡すシーンが大好きだ。

     現象的には失敗し、どん底にいる彼だが、彼の魂の奥底では復活の喜びがあふれ、二人による新しい物語が始まることを予感させる。

    「それはまたよく晴れた暖かい日であった。

    早朝6時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。

    そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。

    ・・ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺め始めた。

    高い岸からは広々とした周囲の眺望がひらけた。

    遠い向うの岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。

    そこには日光の漲った目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。

    そこには自由があった。

    そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。

    そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。

    ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、眼も離さずにじっとみつめていた。

    彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移って行った。彼はなんにも考えなかったが、何ともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった」・・『罪と罰』エピローグ
     

     そこに突然、ソーニャが現れ、彼と並んで丸太に腰掛ける。

     彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめる。彼らは二人とも蒼白くやせていたが、「この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向う近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった」。

    Rimg0994

      春は復活の時・・

     

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「至高体験」への道4・・宇宙飛行士の場合

    「炎の行者」こと、池口恵観氏は、行とは身体、言葉、精神を浄めるために行うものであり、行を通して私達は宇宙大生命、即ち真言密教で言うところの「大日如来」と一体になることができるという。

     その行は何も宗教家だけが行っているのではない。恵観氏によると、仕事を通して人格も磨くのも行であるし、スポーツの練習を通して心身を磨くのも行だという。

     その意味では、あらゆる人が行に取り組み、自分を磨いているとも言えるのである。名もない人達がそれぞれの場で天職を全うし、道を極めておられるのもりっぱな行である。

     さて仕事といえば、宇宙飛行士という職種も厳しいトレーニングで心身を極限まで鍛えるとともに最先端の科学技術や知識を学ばなければならない。

     鍛えに鍛えられた彼らが宇宙空間に飛び出し、経験したことは21世紀の人類にとって実に貴重な智慧の宝庫になるのではないか・・。

     この宇宙飛行士が極限状況で触れた「至高なるもの」について紹介してみたい。

     例えば月面で神の存在を如実に感じたというアポロ十五号のジム・アーゥインの場合は、次のようなものだった。

     神の臨在感は、知的認識を媒介にしたものではなく、「もっと直接的な実感そのものなのだ。

    …月ではちがった。

    祈りに神が直接的に即座に答えてくれるのだ。

    祈りというより、神に何か問いかける。するとすぐ答が返ってくる」というものだったという。


     またエド・ミッチェルも月から地球に帰還する間に次のようなピーク体験を経験する。アポロ十四号で月面での任務を無事にはたした彼は落ち着いた気持で窓からはるか彼方の地球を見た。それを見ながら「私の存在には意味があるのか、宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか」「宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果なのか」…こういった哲学的な問いを発した瞬間に答が浮かんできたというのだ。

     それは不思議な体験だったというのである。

    宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。

    詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。

    とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。

    …すべては一体である。

    一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。

    この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。

    宇宙は創造的進化の課程にある。

    この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ…こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた」 

    Key

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    «「至高体験」への道3・・ガブリエル・マルセルの場合